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締切り済みの質問

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』

質問タイトルはポール・ゴーギャンの絵画に同じです。

 ゴーギャン展の開催にあたって、予てより私の胸の片隅で引っ掛かりのあった、意味深なこの言葉について皆さんのご考察を伺います。

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?

【Q-2】 われわれは何者か?

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?

【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います

【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います

 なお【Q-4】、【Q-5】に関しましては任意にご回答願います。

 以上、よろしくお願い致します。

投稿日時 - 2009-04-29 01:59:45

QNo.4917187

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回答(73)

ANo.73

●リトルキッスさんのご投稿も、ともに吹き飛びました。パルプティノンには、暗喩が理解できないようです。まあ、リトルキッスさんは鋭いのですが、示唆された内容を一切説明されないので、難解なところはあります。これをお読みになったら、復活していただければうれしいです。


Ψ(◎◎)Ψ ゲッ?!えらこっちゃ=☆

【QNo.4692152 芸術(美術)は人の心を表す?】
http://oshiete1.watch.impress.co.jp/qa4692152.html






People say that man thinks with the head, woman with the heart.

投稿日時 - 2009-07-08 22:00:45

補足

ご自身では、芸術は人の心を表すとお考えになるのでしょうか?よろしければお答え願います。お礼はのちほどお送りします。

投稿日時 - 2009-07-10 09:12:04

お礼

リトルキッスさん、ご回答をいただきありがとうございます。

 なぜか時々、あなたが本当に存在しているのかどうか、わけがわからなくなります。いろいろと教えていただいたことが飲み込めていないかもしれませんね。

 そうですね、「女は子宮で考える」とも言いますね。必ずしも、頭で考えたことが真実に近いとはかぎらず、直観が本質をよく捉えていることは珍しくありませんね。まさにおっしゃるとおりです。

投稿日時 - 2009-07-10 09:20:41

ANo.72

pokoperopo様、おはようございます!

>私には、マシュマロさんの表現がピンと来なかっただけで、マシュマロさんの意を十分に汲んではいませんでした。

でしょう?
わたくしはね、文章の下手さと生来の八方美人的性格が仇となって、ソーカルも真っ青なくらい混迷を極めておりますから。
もうもう、自業自得です。こちらに非があるのですよ。
明晰でないものは哲学にあらず、芸術と学問とを厳然と分けるという理由のもと、『知の欺瞞』におけるナンセンスなテクストは糾弾されてしかるべき、だと本当に思います。 全く相違ありません。
(で、ここから先は≪個人的な興味対象として≫「心理学のこのような生理学的段階にあっては─その段階はすでに始まっているが─細胞、分子、原子、場などを使って記述されるミクロな状態についての定量的な概念や定量的な法則が、ますます重要な役割を果たすようになるだろう。そして究極的には、ミクロ生理学は、ミクロ物理学を基礎とすることができるだろう。究極的に心理学を含むあらゆる科学を、物理学の基礎の上にうちたて、あらゆる理論用語を物理学の理論用語で定義可能にし、あらゆる法則を物理学の諸法則から演繹可能にすることが、果たして可能か、という場合に、可能であるという答えは、”物理主義”のテーゼで言いたてられていることである。(カルナップ)」というような奇異な主張もあるにはあるのだなあ、などと秘かにびっくり仰天する余地くらいは許されるのでしょうね。)

いずれにせよ、難解過ぎて実証も理解も容易でない思想はインテリを惹きつけやすく、その信奉者の中からしかるべき解明が為されなければ単なる≪物語的範疇≫におさまってしまっても仕方ないのです。当然です。
今後は時代を遡って他の哲学思想に触れていきつつも、個人的な趣味として、ポストモダン・ポスト構造主義の瑕疵の由来を楽しむことに致します。
ここにあらためて、この書を御紹介して下さったpokoperopo様に心から感謝申し上げます。 
どうもありがとうございます。 元は十分取れましたよ!


>(ホモセクシュアルに関しては)どのようにお考えになるのでしょうか?したがって、私の偏見もしくは謬見ではないと思います。

これも立派な比較文化でフーコの思想にも繋がりますから、パノプティコンの教育的見地から逸脱するものではないかと思います。お願いします。
また「偏見による差別」ではなくとも、わたくしたちはやはり当事者でない限り、ホモセクシュアルに限らず何事も何らかのバイアスに囚われてしまうものではないでしょうかね。
決してあなたに偏見がある、という意図ではなかったのです。
これは本当に信じて下さい。

「フーコのあの発言」に関しましては、当時それを公言させるだけの世知辛い社会的抑圧が相応にあったのだろうと推察したのですが、一方pokoperopo様の彼らの突出した研ぎ澄まされた感覚に対する考察も大変興味深かったです。
イチローと松坂、どちらが気になりますか。
我が家は夫婦揃って松坂です。

>フーコーはかまいませんが、皆が生殖を行われなければ、『われわれは・・』どころじゃないもんね。

んま。
わたくしチラ見しましたのよ。
5歳年上と飲みに行き云々、その一週間前には一回り年下の女性と云々って。
「皆が生殖を行わなければ・・・」なんて、よくまあ、質問をお考えになりますわね、って(笑)
ああ! 二回目の「ここからは辛口になります。」が来そうな予感。
どうかお手柔らかに~♪

投稿日時 - 2009-07-08 08:31:56

補足

せっかくマシュマロさんにご回答をいただいているので、それにふさわしい切り口に変えましょう。

 もし、本拙問を美術カテで質問したら、どのようなご回答が寄せられるのでしょうか?

 私は、類型的で凡庸なご回答がほとんどで、参加されるご回答者も少なく、回答数が多くても、マシュマロさんばかりになったような気がします。皆さんが様々な切り口をされるのは、哲学カテならではでしょう。

 よろしければお答え願います。お礼はのちほどお送りします。

投稿日時 - 2009-07-08 12:21:42

お礼

マシュマロさん、ご回答をいただきありがとうございます。風のいたずらか、テクストが大量に吹き飛び、プロフィールが一時消えていたので、もしや強制仮死状態になられたのではと、気が気ではありませんでした。今のうちに、3号にご転生を図られてもよろしいかと存じます。何らかのワリを食われて、どうやら的にされていらっしゃるようなので、くれぐれもご用心を。私は常に崖っぷちですが。

 リトルキッスさんのご投稿も、ともに吹き飛びました。パルプティノンには、暗喩が理解できないようです。まあ、リトルキッスさんは鋭いのですが、示唆された内容を一切説明されないので、難解なところはあります。これをお読みになったら、復活していただければうれしいです。

 私も、パルプティノンを刺激したくないので、深いコメントは当面は控えます。よろしければ、美術カテの拙問にも、そろそろ健筆を奮っていただきたいものです。

投稿日時 - 2009-07-08 12:44:05

ANo.71

>マシュマロさんが感情的になっているので、一部に批判的な回答がついたのだと思います。

「わたくしが感情的になっている」ので、「一部に批判的な回答がついた」とpokoperopo様にご指摘を受けた以上は、該当者の方に対して真摯に対し、改めて自らの非を詫びたいと切に願っております。
ですので、大変恐縮かつ厚かましいお願いではありますが、なにとぞできるだけ具体的な該当箇所のご指摘をよろしくお願い申し上げます。
自らのあまりの愚鈍さにホトホト嫌気がさしております。


>ここからは辛口になります。そろそろ、芸術と科学を分けてお考えになってください。実利がないものにも価値はあります。それに実利性を持たせようとすると、その価値すら失われます。簡単な逆説ですから、やはりご自身が認めたくないのだと思います。

先の質問「知の欺瞞」におけるポイントを差し上げた結果同様、わたくしはchototu様のご主張に大いに賛同致しますし、mmky様の読み手側の一筋の真理を究める真摯な態度にも心より共感を得ました。
その上で、「芸術と科学を分けて考える場合」と「芸術と科学を分けて考えない場合があるとすればいかなる場合があるのか、その背景としての文化的土壌があるとすればどのようなものか」に関心が向いているだけに過ぎません。
これをpokoperopo様をはじめとする方々が「マシュマロは認めたくないのだろう。」とお考えになるところのように推察致しております。

わたくしはあくまでも「傍観者的立場」のつもりでおります。
今は自らの信条以前に、世の中にはいかなる思想哲学が存在し、どのような形成過程から生じてきたのか独学中です。
ですが、何やらわたくしの態度が曖昧でそこを訝しがるご意見があるとするならば、もしくはそうみなされないとするのであれば、かねてより懸案の拙文の拙さ以外の何物でもありません。
そしてこれが「一片の真理の希求にあらず」というのであれば、更なる厳しいご指導を是非ともお願い申し上げます。


>ユートピア的な仮定(批判ではない分類です)ではなく、生物学的な帰結を問うているのです。ジェンダーとは無関係です。すべての男性が、女性とのセックスを拒んだら、この世はどうなるのでしょうか?

あらゆる社会システムの機能がマヒしてしまうかもしれません。
男女の性差に基づく全ての価値観が根本的に覆されるわけですから、現実的なライフスタイルはもとより、宗教哲学の思想によっては、根本的に見直されるものも出てくることでしょう。


余談をお許し下さいませ。
わたくしはかつて「質疑以上」の論戦まがいの回答をして周囲から大いに顰蹙を買った経験があり、この轍を踏まない覚悟でおります。
恐らく別サイトからのストーカーもその名残ですし、それはひとえにわたくしの不徳の致すところに他ならないので甘んじて受けないといけないと考えているのです。
ですので、今のわたくしは一定以上の対話以上のものに対し、これを最大限に避ける傾向にありますし、出来得る限りあらゆる多様な価値観と考えの存在を認めていきたいと願っております(程度問題ではありますが)。

この点につきまして、なにとぞご容赦いただけましたら、この上なく幸いに存じます。
本当にpokoperopo様ないし該当者の方々におかれましては失礼なことを致しました。
大変申し訳ありません。 

投稿日時 - 2009-07-06 23:10:24

補足

ホモセクシャルについて申し上げます。すべての男性がホモセクシャルである場合、どのような社会的な混乱があるかはわかりません。最終的には生殖が行われなくなるため、その代で人類は絶滅します。難しくないでしょ?これについては、どのようにお考えになるのでしょうか?したがって、私の偏見もしくは謬見ではないと思います。フーコーはかまいませんが、皆が生殖を行われなければ、『われわれは・・』どころじゃないもんね。よろしければお答え願います。心よりお待ちしておりまーす。

投稿日時 - 2009-07-07 14:43:52

お礼

マシュマロさん、ご回答をいただきありがとうございます。

 誰が連絡したのか、こんなふうになってしまいましたが、パルプティノンに嘆願をしましたので、お休みになられているのなら、お気が向かれたときに再回答をお願いします。質疑応答の主な責任は、質問者である私にありますから、何とぞおゆるしください。

 私には、マシュマロさんの表現がピンと来なかっただけで、マシュマロさんの意を十分に汲んではいませんでした。深くお詫び申し上げます。

 私も気をつけますので、よろしければ今後ともご投稿を願います。

投稿日時 - 2009-07-07 13:30:42

ANo.70

pokoperopo様、いつもお付き合いくださりまして、本当にありがとうございます。
明日はお仕事なので、今のうちに。

>あの例えですが、ポストモダニストたちの哲学と数学の"melange"と似て非なるごった煮に、ソーカルが火を点け"flamber"たと言いたかったのですよ。
>フランス現代思想は重要ですので、これを軽視するものではありません。

んま。何て完璧で美味しい言い回しなのでしょう!
これは「知の欺瞞」どころか、これは「読み手の怠慢」以外の何物でもありません、大変失礼致しました。
ソーカル達の主張を見事に表現なさっていらっしゃいますね。
真面目にpokoperopo様に弟子入りしようかしら^^

フランス現代思想は重要、もしくは軽視するものではないのですか?
どうなのでしょうね、わたくしはこれに対しては「重要」とか「軽視」とかといった価値判断を置いていないのです。
いずれは栄枯盛衰の必定でサルトルのような運命を辿るのかもしれません。

さて以下の長文ですが、「ホモセクシュアルつながり」ということで、どうかご勘弁を。ちょっとご一読下さいますようお願い申し上げます。

「しかし、実を言えば、この小論の趣旨は、「未来」「人類」「普遍」といった大文字の観念の安易な援用に戦後の折口の言説の衰弱の兆候を見た上で、それと対照をなす「民族史観における他界観念」の、ほとんど彼の遺言とさえ言える周密な論述とともに最晩年の折口が辛うじて「持ち直した」などといった、予定調和な物語を提出するところにあるわけではない。われわれはむしろ、逡巡に満ちた右往左往の挙句の果て、「未来詩語・未来文体」などというわけのわからぬことを持ち出すに至るこのやや”すかすかの”折口の文章を、それ自体、文学現象としてきわめて面白いものと考えるものである。「新国学」の泰斗が外国語の翻訳文体に「未来詩語」の夢を託すなどといきなり言い出したとき、そこにはたとえば志賀直哉の「フランス語国語採用論」にも似た奇怪な錯乱が感知されるかのようであるが、大上段に構えた「当為」と過剰に生真面目な「予言」を無理やり重ね合わせた折口の論述には、志賀のあっけらかんとした放言の爽快さも無根拠な自身もなく、むしろこの時期の折口の心弱りが透けて見えるばかりだ。・・・・

・・・・だが、戦後の一時期に書かれた、ないし語られたこれらのテクスト群を、地的巨人の低迷期の一挿話へと貶めて事足れりとするのではなく、それらが浸り込んでいるこの弱弱しさを、たとえば「ポストモダン」的な言説携帯の模索と捉えてみたらどうだろうか。 彼がここで想像している「未来」とは、いずれ訪れる現実のことではなく、「裸虫」である自分を救ってくれるものへのあてどない呼びかけにすぎない。・・・・

・・・・歴史の終わりの彼岸に想定されるにふさわしい「未来」「人類」「普遍」といった「ポストモダン」的諸観念が、折口にとっても誰にとっても新たな「殻」として機能し得ないのは言わずもがなのことであり、彼自身にもそれはよくわかっていたに違いない。しかし彼が選んだのは、とりあえずそうしたフェイクでしかない観念をちりばめた冗漫な文章を綴りつつ、この時期を何とか曖昧にやり過ごそうとする途だった。ところで「ポストモダン」とはまさに、確信の不在と猶予状態の引き延ばしによって定義される言説形態と、それが孕んでいる奸計のことではなかったか。露出した歴史的現実を前に自分をますます無力な新生児のように感じた折口は、図らずもそうした「ポストモダン」的言説の中に入ってゆく。勝利はなくても少なくとも決して負けることだけはないといったそうした空虚な言説を実践することで、彼は「裸虫」の状態のままとりあえず過渡期をしのごうとしたのだろうか。」『折口信夫論』松浦寿輝 ちくま学芸文庫(p227-230)

「ポストモダン」が【奸計】という語彙と共に、絶妙に≪用いられている≫大変ユニークな考察だと思うのですが、いかがでしょうか。
わたくしの立場としましては、ソーカル達の主張は至極当然で非難は一考に値すれど、単にそれまでに過ぎない、と思っているのです。

つまり、「事件の本質」として何を見出すか、ではないでしょうか。

難ありやナンセンスな眉唾テクストの非を糾弾して全て無意味なものとみなす考えももちろんあるでしょうが、短所を充分認め本質的な真理を見出そうとする努力の姿勢をもってすれば、まだまだ「使える」ように思えるのです。
マグリットの絵画論もそれほど悪くはないでしょう?
この「真理を見出そうとする努力の姿勢」はね、「知の欺瞞」の質問で頂戴した得難いものの一つなのです!

>フランスは、私のイメージではとんがりすぎなのです。何かしら新機軸を打ち出さないと気が済まない。その定義を曖昧にすることを許さない、論理性を重んじる文化と重なって、狭義性に固執しているような気がするのです。

はい、概して何気にうんちく好きではありますよね、そこの頑固なこだわりがおっしゃるところの「狭義性に固執」しているように映ることがあるのかもしれませんし。

>霊を信じることと、心霊現象を恰も客観的事実として取り上げるのは、話が違うでしょう。

はい、そうですね。
もしよろしければかなり薄っぺらいので『近代科学を超えて』村上陽一郎 講談社学術文庫 を推薦してもよろしいでしょうか。
一意的法則によって、時間・空間のなかに事象を記述する現代科学の抱えるある種の飽和状態を解くカギとはいったい何でしょう?という内容です。

夏休みにご推薦いただいた小説をゆるゆると読ませていただきますね。
あと、ゴーギャンのコメントは美術カテの方へ書かせていただきます。
もう少々お待ち下さいませ~zzz

投稿日時 - 2009-07-06 02:17:35

お礼

マシュマロさん、ご回答をいただきありがとうございます。

 村上陽一郎はなぜか読んでいませんでした。科学オンチが避けていたのだと思います。ご推薦をありがとうございます。皆さんに多くの本(他の拙問と合わせると数十冊)を、お薦めいただいているので、早いところ消化してまいります。

 ここからは辛口になります。そろそろ、芸術と科学を分けてお考えになってください。実利がないものにも価値はあります。それに実利性を持たせようとすると、その価値すら失われます。簡単な逆説ですから、やはりご自身が認めたくないのだと思います。マシュマロさんが感情的になっているので、一部に批判的な回答がついたのだと思います。私がポストモダニストであれば、ソーカルの告訴を考え、それもままならなかったら首を吊るでしょう。それくらい惨いプライドを傷つける批判です。しかし、それとこれとは関係がないのです。私には、猪突さんのような学術的な説明や、適切な抽象表現ができませんから、作話的な例示をします。

 概ね水平な巨大なオブジェが、街のシンボルとして好評を博していたとします。しかし、その作者が「これは椅子としての機能に価値がある」と説明します。そうなれば、市民はそこに腰掛けて価値を確かめようとします。しかし、その作者は「これは象徴にすぎないから腰掛けてはならない」と待ったをかけます。それを聞いた市会議員が「そのようなご説明をなさるなら、作品の椅子としての機能を検証した上で、高機能のベンチの設置ならびに作品の撤去を諮問いたします」と宣言しました。撤去とはならなかったものの、作品の評価はガタ落ちです。さて、この議員はえげつないでしょうか?

 最初からオブジェとしての芸術性のみを語っていれば、このような問題は起きなかったのです。機能性が求められるのはベンチです。オブジェに権威づけをしようと、機能性を持ち出すことが《ナンセンス》なのです。オブジェにはオブジェとしての価値しかなければ、オブジェたりえません。その作者は、余計な説明で墓穴を掘ったのです。ポストモダニズムにオブジェのメタファを用いるのは、あながち的外れだとは思いません。よく原題を思い出してください。これがあまねく見受けられたなら《ファッション》です。

 とはいえ、フランス原題思想再評価の気運が高まらないとも限りません。これを機に勉強します。

投稿日時 - 2009-07-06 21:03:39

ANo.69

急ぎ訂正致します。

ゴーギャン展は、上野ではありません。
正しくは、竹橋にある東京国立近代美術館です。ごめんなさい。


>彼らの援用する数式が、空疎なことが問題なのです。数式によってそれらしく見せようとするトリックです。

これにつきましては、ちょっとお時間を頂けますでしょうか。
元来、占いやオカルト、超常現象、などいわゆる「似非科学」の類には興味が皆無であっただけに(つまり愚鈍)、逆にひっかかるところがあるのです。
また現在の量子力学をどうみなすかにもよるのかもしれません。
「単なる数式による難解さによる誇張、虚勢、空疎でしかなかったのかどうか」といったあたりは、いずれにしても「表舞台」には出てきそうもないですし、こちらのカテで賛同もとれそうもないですね。
心理学の類は本当に訳わからないから避けたいのですが、やはりバタイユの元妻繋がりでラカンを調べてみるべきか。う~ん。
それにもっと他の思想哲学も知りたいから、いつまでもこのあたりにいるのも何だか…。

>ホモセクシャルの強制により、人類滅亡を目論む大悪党と敬遠していた(貴族のくせに)のですが、

お言葉ではありますが、ゲイの外国人と長らく友人だったことがあります。
彼は元々NYC在住で(今はどうだか)、嗜好の許容度もあるし、女性としても相談する分にはなかなかに信頼できる誠実な男性でした。
ですから大真面目に偏見はないのです。
でもだからといってpokoperopo様を非難してるわけではありません。

>『これはパイプではない』哲学書房
>ルネ・マグリットの作品を題材に、『言葉と物』にも繋がる、言説と表象について述べています。

はい、マネに関する考察よりはよろしいのかもしれませんね。
といいますか、わたくしは別にフーコの応援団長を名乗り出ているわけでも何でもありませぬ。
そうそう、「『アナロジーの罠 フランス現代思想批判』ジャック・ブーヴレス」こそ、pokoperopo様を是非見習って、図書館で借りたいと思っております。
内容は似ているのでしょうか。

ところで、近所の古本屋さんで旧いゴーギャンの本を安価でもとめたのですが、そこに「われわれは~」に関するゴーギャン自身のコメントが記してあるのです。
ご興味がもしおありでしたら、次回にでも書き込みますがいかがでしょうか。

投稿日時 - 2009-07-05 09:05:37

補足

フーコー本人が、ホモセクシャルであることは問題にしていません。私は、ホモセクシャルに偏見を持つわけでもありません。お知り合いのように、素敵な方もいらっしゃるでしょう。フーコーは「男は皆、ホモセクシャルであるべき」と発言しています。もし、世の男性がすべてホモセクシャルであるなら、どうなるのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-07-05 14:11:55

お礼

マシュマロさん、ご回答をいただきありがとうございます。東京国立近代美術館は、上野ではなくて竹橋なのですね。名古屋人なもので知りませんでした。わざわざ教えていただきありがとうございます。

 あの例えですが、ポストモダニストたちの哲学と数学の"melange"と似て非なるごった煮に、ソーカルが火を点け"flamber"たと言いたかったのですよ。回りくどいメタファは、やはり忌むべきものですね。フランス語はよく知らないので、変な例えとなりました。これも『「知」の欺瞞』ですね。

 私は、数学は苦手ですから、もし指摘がなければ、うっかり信じてしまいます。似非科学は、マニアがいてトンデモなくすごいんですよ。まあ、その中から真贋がはっきりすればよいのですがね。霊を信じることと、心霊現象を恰も客観的事実として取り上げるのは、話が違うでしょう。アメリカ人は、宇宙人が地球に潜伏していると考える人も少なくないそうですから、サブリミナル効果を検証するとか、副次的な意味合いは否定できませんけどね。

 フランスは、私のイメージではとんがりすぎなのです。何かしら新機軸を打ち出さないと気が済まない。その定義を曖昧にすることを許さない、論理性を重んじる文化と重なって、狭義性に固執しているような気がするのです。この点において、誤った認識はご教示賜りたく存じます。もちろん、フランス現代思想は重要ですので、これを軽視するものではありません。

 ゴーギャン展で、ゴーギャン自身による、絵の解説を読みました。マシュマロさんのおっしゃるものとは、違っているかもしれないので、是非ともご紹介ください。『ノアノア』を読み終えたら、感想をお話しします。風邪は治り際が肝心です。ご無理をなさらぬようご自愛ください。

投稿日時 - 2009-07-05 14:49:20

ANo.68

こんばんは、pokoperopoさん。

●血の海ってやつはいかがですか?あっ、まずいですね。しかし、人間の体はほとんど水分でできていますね。涙が海になるほどにないたことはありますか?よろしければお答え願います。

【水】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4
【水部】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%83%A8
【サンズイ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9A%E8%81%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

『桃色吐息』
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/momoiro_toiki.htm

流れ出たお金の行方~通貨発行権

投稿日時 - 2009-06-13 17:59:17

補足

私もおかねには泣いています。ところで、次の選挙はどうなるのでしょうか?われわれはどこへ行くのか?ってとこですね。よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-07-01 13:10:20

お礼

リトルキッスさん、ご回答をいただきありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありません。

おかねは涙なくして語れませんね。高橋真理子、懐かしいですね。『ごめんね・・』♪消えない過ちを言い訳する前に、あなたに・・。なぜか懐メロ大会になりますね。これも、われわれは昭和から来たからかもしれませんね。

投稿日時 - 2009-07-01 13:18:01

ANo.67

 早速のご連絡、ありがとうございます。ご確認いただきたく思いまして、念の書かせて戴きます。

 『真っ向から神の存在を否定されているわけでもなく』につきまして。
 神であれ絶対的存在であれ、現状ではその存在について否定も肯定もできないため、否定も肯定も現状ではしていないだけです。いずれ興味を持った人が立証されるでしょうが、私は興味はありません。
 この質問にかかわった理由ですが、「未だ存在が証明されていない神(絶対者)の存在を、既に証明されたかの如く偽って(乱暴な表現で申し訳ありません)入信を勧める方が確かにおられますので、勧誘を受けた方がたとえ入信されるとしても、神(絶対者)の存在というものは未証明で仮定の存在であることを納得された上にしていただくことが、神(絶対者)の存在を信ずる方たちにとっても長期的にはプラスであると思います。それは、そのような立場の方の中から、きっと神(絶対者)の存在を探求する方が現れると思うからです。神(絶対者)の存在を信じない方から、神(絶対者)の存在を探求する方が現れるとは思えませんから。
 pokoperopo様の質問が、どのような意図のもとに発せられたのかはわかりませんでしたが、神(絶対者)の存在というものは未証明で仮定の存在であることだけは納得いていただいたほうがよいという、おせっかい心から、ついいいらぬ関与をしてしまっただけですので、ご理解ください。

 『われわれは、どこかの宇宙的物質が地球に居着いて、進化したのかもしれないと思うことがあります。時の始まりがわからないことには、この話も難しいのですが、この地球に生命が生まれたのは、なぜでしょうか?どうしてそういう環境になったのでしょうか?こうしたお膳立てがあっての人間の誕生があり、ここから始めましょう。別の切り口からでもかまいません。ご自由にお考えをおっしゃってください。』につきまして。
 『人間は何のために存在するのか。』ですが、私の浅薄な考え方では、生命の存在は宇宙におけるごくありふれて出来事であり、地球以外に多くの生命体がいると考えており、生命の誕生に目的はないと考えておりますし、そこに『神(絶対者)の存在』を必要としない解を求めております。ですから、個人の存在意義は各個人で見つけるものと考えております(このようなおせっかいも、私が私の存在意義の一つとして、個人的に思い込んだものの一つです)。
 しかし、これはすでに科学的証明の範囲を逸脱しており、現状との整合性がとれる範囲であるならば許される推論・仮定の一つです。
 そして、pokoperopo様がおっしゃる通り、『形而上的な追求』も、現状との整合性がとれる範囲であるならば許される『推論・仮定の一つ』です。ただし、必要であるかどうかは各個人の立場によると思います。

 人間の存在理由についての対話につきましては、『結果が得られない未証明な命題を持ち出してお互いに推論を提示し合うことに時間を費やすよりも、未証明な命題を証明することに時間を使うことを選びます。』ので、人間の存在理由について『神(絶対者)の存在』を必要とされる方は、私のような変人を相手に対話をされる事を選ぶよりも、まず、是非その立証に邁進していただきたいと思います。『神(絶対者)の存在』が立証されますれば、なによりも信者の方々に、盤石な信仰の土台を与えることができると思います。そして、めでたくも立証されました暁には、私もぜひ対話する事すらなく入信させていただきたく存じます。繰り返しますが、『神(絶対者)の存在』の立証に邁進してください。これは、pokoperopo様のような立場の方々にしか、決して成しえないことですので。
 pokoperopo様におかれましては、私の考え方を御理解いただけたと思いましたうえで、pokoperopo様の『神(絶対者)の存在』の立証へのご活躍を、改めて応援させていただきたいと存じます。

投稿日時 - 2009-06-12 17:33:33

補足

仮説で構いませんので、生命の起源についてのお考えを伺ってもよろしいでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-12 21:00:00

お礼

ご回答をいただきありがとうございます。

様々な角度からのご回答が寄せられています。ゴーギャンの絵画について、彼を取り巻く環境について、形而上学的、科学的、文学的、人文学的、ありとあらゆるご考察です。あなたのご回答を含めて、すべて質問趣旨に概ね沿ったものですから、どうかお気になさらないでください。

理科の授業に臨むに当たって、信仰を捨てる必要はありませんが、その解に「神の為せる業」と書いたら落第します。要は、主題から外れて、論旨をはぐらかすために、別物を持ち出すのがいけない、これは逃げである考えます。あなたのおっしゃるような、証明不能な神を持ち出して、これぞ神の証明と事象を指す。これでは、話はそこで終わりますね。

ですから、私は宗教の勧誘などとは無縁ですから、どうか気兼ねなく、拙問を目に留められた当初の、ご興味をお好きなようにお話ください。私もいろいろと教わりたいのです。よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2009-06-12 21:19:09

ANo.66

pokoperopo様、こんにちは!

海(海水、水)といえば、「Earth Wind & Fire」の土、風(空気)、火のエレメントと共に古代以来の哲学命題であり、かつ「われわれは~」の背景的モチーフとしても不可欠です。
ある種の「原風景」の所以なのか、この絵画に関しては特に、鑑賞していくほどに不思議な魅力を増していくように思えます。

>ゴーギャンは写実は苦手なのでしょうかね?

はい、ピカソなどとは異なり彼が一貫してストイックなまでに究めた手法、つまり奇抜で独創的な原色の使用や伝統的絵画構図からの逸脱・誇張といった箇所に着眼するかぎりにおいて、ゴーギャンは「写実は苦手」とのイメージが拭えないのだと思われます。
目指すところのものが違っていたとしか言いようがないのでは。

>キリコの『ヘクトールとアンドロマケの別れ』

これですね。
http://wahooart.com/A55A04/w.nsf/Opra/BRUE-5ZKCF3?Open&ChangeLangue=ES
黄色い地平線、光源と陰影、高さの測り知れない茶色の物体、二体のプロポーションのアンバランスな点による「不安の喚起」もさることながら。
二体の「足の部分」だけが実に写実的であり、妙な人間臭を醸し出すその「華奢さ、不完全さ」が、当時台頭しつつあった前衛的な機械的未来志向への反逆精神を暗喩しているように映ります。
人間の脆さや哀切を帯びたアンドロイド、ってところでしょうか。
pokoperopo様はどのようにお考えになられますでしょうか??

Victoria Albert@LDNのセルフなランチ・ルームとして使用されている大変美しいモリスの部屋があります。
何てことはないカジュアルなパンとコーヒーもこちらの部屋でいただくと、何とも不思議な気分というか…つまり、食べた心地がしません(笑)
http://www.vam.ac.uk/images/image/21677-popup.html

投稿日時 - 2009-06-10 17:26:48

補足

どちらも好きですが、私はEW&Fの中では、'fantasy'が一番好きですね。それはそうと、“BRIAN ENO/THURSDAY AFTERNOON”は、もうお聴きになりましたでしょうか?創作活動にはもってこいのBGMであると思います。好き嫌いが分かれそうなだけに、マシュマロさん向けでしょう。もし、お聴きになりましたら、ぜひご感想をお聞かせ願います。

投稿日時 - 2009-06-10 19:41:12

お礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。いつも励ましをいただいて、照れるやらうれしいやらで、何と言ったらよいのかわかりません。

愛車のフィアットで海まで走るのも、時期的には季節はずれが好きなのですが、梅雨に入った今は、雨上がりなどがよさそうですね。主にボサノヴァを聴きながら、クルマを走らせるのですが、30分もしないうちに帰ってしまいます。

子供の頃、ミロのドヘタな絵を観て、なんぢゃこれと思ったのですが、中学の時にピカソの写実画を観て、ミロもピカソも何らかの意図があって、あんな絵を描くのだとわかって以来、考え方が変わりました。敢えてアンバランスさを強調した絵や、抽象画からもデッサン力は推し量れるのでしょうか?ゴーギャンはキャリアも浅いので、その点はイマイチではなかったかと、勝手に推測しています。

キリコは、敢えて風景や顔面を描かないことにより、観る者を試しますね。影の長さも不自然、二対の釣り合いもとれていないことから、ヘクトールとアンドロマケーの想いのすれ違いや、男女の相反する事象への対処が伺えます。のっぺらぼうは無個性化を推進する現代社会へのひはんでしょうか?しかし、キリコが自らの作品を否定的に語ったこと、そのシリーズは何作もあり、意図的に創作年を偽ったことからして、詳しいことは謎のままです。

モリスは社会主義者としても有名ですね。彼はイギリスの中産階級の文化を押し上げ、階級社会の大仰性から離れさせたことは評価できますね。当時は、その社会状況からも、脳天気な社会主義思想が流行っていましたが、彼をファンタジー作家、生活芸術家と捉えれば、生産効率を追求する社会に疲れたときは、程よい癒しとなりますね。

イギリスは飯はまずいといいますが、紅茶とウヰスキーのこだわりは相当なものです。私は、バーでシングルモルトウヰスキーをストレートで飲むのが好きです。マシュマロさんには、紅茶とクロワッサンがよく似合いそうですね。私には、そんなふうに感じられます。

投稿日時 - 2009-06-10 20:44:35

ANo.65

 長い間お返事いたしませんで、申し訳ありませんでした。この相談室は、回答に必要な自分のブログのURLすら、個人特定可能情報として処理され、その情報だけでなくその情報を含むすべてを、何の相談・確認も無く削除してしまいますので、あまり覗くことがなくなってしまいました。ところで、純然たる私的考察でも可とのことですのでお答えします。
 人間存在の一般化・普遍化の流れについて
 昔々、人間は宇宙の中心的存在だった。観察結果から導き出された、科学的な考察です。何しろどう見たって、止まっている自分達(地球)の周りを、空の世界が回っているように見えるのですから。この科学的考察に基づいて出来上がったのが天動説ですね。
 そして、この考え方は、仮想の神を頂点とする自らが属するヒエラルキーの構築・擁護をする立場の人々に、実に都合のよい根拠を与えてくれ、より神に近い人物への無条件の尊敬・服従を得ることができることになるわけです。
 長い間、天動説以上に空(天体)の動きをよりよく説明できる考え方は表れませんでした。いえ、あったのかもしれません。しかし、たとえあったとしても「異端」とされ、歴史に残ることさえ許されなかったでしょう。
 人間解放ともいわれるルネッサンスの頃、天動説に比較しうる地動説が現れます。人間の精神的自由を求めるうねりの中で、やっと歴史的存在を認められたのかもしれません。
 しかし、それでも天動説のほうが優勢でした。天動説のほうが観察結果から導き出される惑星の位置の予測をより良く説明できたからです。
 その後、望遠鏡などの観測装置が発達し、その精度を上げていく中で、例えばガリレオ衛星の発見によって、地球を中心としない天体の存在があることが知られ、天動説の根拠が崩れるなど、徐々に地動説が認められていくことになります。
 さらに人類の知識は広がり、今では私たちの地球を含む太陽系は、さしわたし約10万光年とされる天の川銀河の中で、その中心から約3万光年ほど離れたオリオンの腕にある、辺境の一恒星系にすぎないことがわかってきました。
 この時点で言えることは、少なくとも人間(人類)も地球も太陽も、何ら特別な存在ではなく、ごく一般的な存在なのではないか?ということです。なにしろ、太陽系を含む銀河系すら宇宙の中心ではなさそうだということになってますから。
 さらに、私たちの宇宙が生まれたビッグバン宇宙の外側には、別のビッグバン宇宙があるのではないのか?などと、SFのテーマにすらならないことを私は考えています。10年以上前に雑誌「ニュートン」のとじ込みはがきに書いたことがありますが、届いたかどうか不明です。私の宇宙は広大ですので。
 このように、人間の存在は、特別なものからありふれたものになってきたと思われるのですが、ここまできて人類・地球の存在の特別性を提唱するのには、かなりの無理があると思います。それこそ「神の存在」が必要でしょう。
 さて、われわれは微生物と同じく、何らかの要因があって存在するわけですが、これも、神の存在同様何も証明されてません。
 どうも宇宙には均質化に向かう傾向があるらしく、いずれは星も生命も存在しないことのなるそうです。
 ということは、完全な均質化の前は不均質ということでは? どうもこのあたりに物質の集積原因があり、均質化への対抗現象として、進化というものがありそうです。
 しかし、人間だけが、この質問主題のような問い掛けをする知性を得たのはなぜか? 
 人間という知的生命体の存在を、私たちが存在する宇宙の中で、唯一無二のものとする考え方からすると、なぜ私たちだけが?となるのでしょうが、知的生命体がありふれた存在であると考えるならば、宇宙の進化の中でのごく普通の出来事で、私としては不確定性や揺らぎなどに答えを求めたくなります。
 封印された『「地球が存在するのが、神のいる証拠」と言ってしまいたくなることがあります。しかし、この言辞は有神論者間でしか通じず』なのですが、それまで神の存在の考察を行ったことがないような人たちに、「地球が存在するのが、神のいる証拠」論を突き付けている方をTVで見たことがあります。有神論者の方たちにとっても立場を悪くすることになるのでは?などと心配しております。
 わからない事(物)に何らかの解釈を求めることには大賛成ですが、証明もされないうちに、その解釈が既定の事実でもあるかのようにされることには反対です。
 「今はまだ分からない」。とても魅力的な言葉だと思いませんか? 未知の世界が私たちを待っているのですから。
 削除対策で私のブログに転載させていただきます。

投稿日時 - 2009-06-10 16:55:25

補足

人間という存在は、その営みにおいて、知的な問い掛けをします。われわれは、どうして存在するのでしょうか?それは、何の意味もない偶然の出来事なのでしょうか?あるいは、『利己的遺伝子』の為せる業なのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-10 17:14:51

お礼

ご回答いただきありがとうございます。お久しぶりというほどでもありませんが、ご回答を見つけたときは、うれしく思いました。いろいろご事情もおありでしょうから、いつでもお好きなときにお寄りください。

それにしても、いろいろと深くお考えになっていますね。天動説から地動説へ、地球は太陽を中心に回る惑星にすぎないこと、太陽系は銀河系の一部にすぎず、銀河系もまた、宇宙の一部にすぎず、われわれは中心世界に住んでいるわけではないことが解明されました。そもそもが、われわれが宇宙の中心でないからといって、何の問題もありません。ここにも人間の傲慢さがありますが、われわれの存在原因が科学で解明できない以上、形而上的な追求は必要であると考えます。

もちろん、これは神がどうのという話ではありませんし、皆さんがおっしゃる神とは、絶対的存在と置き換えていただければ、さほど気にならないと思います。あなたは、真っ向から神の存在を否定されているわけでもなく、違うお考えの方にも十分な配慮をされたうえでのご発言ですので、どうか率直なご意見をおっしゃってください。あなたのお申し出は、天文学的、物理学的、生物学的、地学的、形而上学的、社会学的、さまざまな見地からの対話を促進する、絶好の契機だと思います。大いに仮説を楽しみましょう。

 われわれは、どこかの宇宙的物質が地球に居着いて、進化したのかもしれないと思うことがあります。時の始まりがわからないことには、この話も難しいのですが、この地球に生命が生まれたのは、なぜでしょうか?どうしてそういう環境になったのでしょうか?こうしたお膳立てがあっての人間の誕生があり、人間は何のために存在するのか。ここから始めましょう。別の切り口からでもかまいません。ご自由にお考えをおっしゃってください。

あなたのブログが拝見できないのは残念ですが、いつかは拝見できることを願います。しばらくは、ここでおつきあい願えればうれしく思います。

投稿日時 - 2009-06-10 18:03:45

ANo.64

 No.64を受け継ぎます。

 ★ (No.64お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「まあ、いいや」と言われては、「ああ、そうか」と言う他にはありません。◆ 私には信仰がないのですから、キリスト者ではありません。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 記号(◆)の前と後とは 文章(つまりご判断=意志表示)が切れています。そう受け取りました。
 わたしは
 ★ 「まあ、いいや」
 ☆ というように 可能性がなおあるかも知れないと匂わす表現ではなく
 ☆☆ 〔敵対的な言い草を意図してはいませんが そう取られても〕 もういいや
 ☆ と――もしその節には――最後のことばとして 言ったのですが もうそれはどうでもよいですから 記号(◆)の前のご発言を受けて 投稿をすべてあきらめました。では。

投稿日時 - 2009-06-09 11:14:46

お礼

ご回答いただきありがとうございます。私の言葉で誤解を招いてしまって申し訳ありません。私としましては、反論もできないということです。その資格もないように思われますので。私に非があることですから、どうかお気を悪くなさらないでください。

投稿日時 - 2009-06-10 12:03:30

ANo.63

 No.60を受け継ぎます。

 ★ 私も、特にゴーギャンが好きなわけではありません。他に、ご興味を惹かれる画家があるのですか?よろしければお答え願います。
 ☆ わたしが 《ゴーギャンはつまらないです》と書いたのは そのあとに 《ピカソよりは ましかも知れません》と続けたように ゴーギャンの絵にけちをつけるためではありません。この絵の批評を書けないことの言いわけです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私はキリスト者とはいえません。大切なのは、現在とこの生であることは間違いありませんが、キリスト者しかいなくなれば、生命の起源を究明しようとする者はいなくなるのですね。科学と宗教の分離が、この世界の喜劇であります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうでしょうかね。もうお答えする気力がありません。あしからず。(つまり あからさまな皮肉です。敵対的な言い草を意図してはいませんが そう取られても もういいやというものです)。

投稿日時 - 2009-06-08 23:04:53

お礼

ご回答いただきありがとうございます。「まあ、いいや」と言われては、「ああ、そうか」と言う他にはありません。私には信仰がないのですから、キリスト者ではありません。キリスト者とは、キリストの信仰を守るものです。キリストのシンパというだけでは、キリスト者と言えないからこそ、信仰生活を終えたのです。これに関しましては、いかなる批判も受けますが、拙問の主題には、われわれが生まれる以前のことが含まれます。キリスト者が、それを問わないことを善しとするのは理解できますが、それを問うた者が不誠実なわけではない、人類共通の素朴な疑問です。哲学の主題としても問題はないでしょう。私はキリストに無関心ではありませんが、さりとてキリストと共に歩むわけでもありません。これまた他意はございません。《三位一体》も説明原理としては、ああそうかとしか言わざるを得なく、この世にあっては信じるか否かの問題となりましょう。

投稿日時 - 2009-06-09 01:18:39

ANo.62

私は、概念や絵や写真に出会うにあたり、毎回、様々なストーリーを思い描いて楽しんでいます。

ただ一つ恐れるとすると「多数の選択肢の内のひとつの解釈」をまとめて書き込んで行く内に、「【それがもっともらしい】と思い込んでしまうのではないだろうか?」ということです。
そのため、今回の回答(というより、一つの考え)を最後にしたく存じます。
(決してpokoperopo様の誘導尋問?から逃れるためではありませんので、誤解無きよう。。。笑。。。)

今回は、「多義性」よりも「定位・切り出し」といった概念にて見てみます。

>>>
あの偶像は、月の神ヒナと、大地の神ファトゥと、創造神タアロアとの、三つを組み合わせた、ゴーギャンの想像の産物とはいえないでしょうか?よろしければお答え願います。
<<<

今回も
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin.html
から、引用させていただきます。

>>> http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_gogh.html
ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ
(Van Gogh peignant des tournesols) 1888年
73×92cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ国立美術館
(前略)...当時のゴーギャンは描く対象の(自然主義的な)写実的表現を否定し、クロワゾニスムを用いて己の内面で見えるものを描くことを理念としていたことに対して、ゴッホは本作に示されるよう対象(ここではひまわり)を置き、それを見ながら制作する方法を採用しており、この相容れない二つの芸術論は次第に二人の関係を悪化させ...(後略)
<<<

ゴーギャンは、クロワゾニスという手法を用いることで、(子供時代の環境要因なども関連していたかも知れませんが)知らず知らずのうちに自身を神の視点に近づけようとしていたようにも思われます。

すなわち、ゴッホの絵が対象と自己との関連性を「切り取って」描かれたとするならば、ゴーギャンの絵はそれら関連性をも包括的に自身の内部に取り込んで(自身の思うままに処理することで)、好きな位置で切り出した(切断した)状態を描くことが可能だったのでしょう。絵として切り出す位置を間違えると、描かれた側にさえも、多大な影響を与えてしまう(切り取る位置を誤る)ということに気がついたのかも知れません。

>>> http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_portraita.html
光輪のある自画像(戯画的自画像)
(Portrait-charge de Gauguin) 1889年 | 79.2×51.3cm
油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー
<<<

では、作品解説を読むまでもなく、(神の視点に近い、なんらかの)「優位性」の位置にて「切り出し」が行われています。

で、件の絵の偶像ですが、一つの解釈としての「タアロア」には
>>> http://www.pandaemonium.net/rdb/menu/file/705.html
タヒチ神話における至高存在であり創造神。自分自身の姿に似せて人間を造った。
<<<
とありますが、(おそらく、月の女神ヒナと合わせた)その偶像をゴーギャンが書き入れるに辺り、逆に「自分自身に似せて」偶像を作った(
偶像に自身に重ねた)という解釈も可能です。

であれば、娘の死後の行き先をも、また、自身の死後の行き先をも、(輪廻するかしないかを含め)自身が決定できる(青:自由の世界)という思いを込めて偶像を描いたのかも知れないですね。

投稿日時 - 2009-06-08 03:55:04

お礼

じねん&じんえんさん、ご回答いただきありがとうございます。おっしゃるとおり、ひとつの思いにとらわれてはいけませんね。絵の意図を、ゴーギャンの口から聞くわけにはいきませんし、彼の意図せざる部分もあることでしょう。それを観る者が自由に感じ取ることは、その多義性を味わう意味においても、この対話は有意義で感謝に堪えません。私も本物を観て考えが変わりました。やはり本物は、ゴーギャンの生い立ちが色濃く出ているのです。機会がありましたら、どうか本物をご覧になってください。ゴーギャンの絵が、ボストンに帰るまでは、この質問は締め切りませんので、是非ともご感想をお聞かせください。また、いつでも寄っていただければありがたく思います。

投稿日時 - 2009-06-09 02:23:31

ANo.61

pokoperopo様、こんにちは。
いつもご丁寧なお礼をどうもありがとうございます。

>初期のゴーギャンの印象派的な作品群は、個人的には駄作、あるいは二流そのものであると考えておりますが、これは素人考えでしょうか?
>ゴーギャンの絵画技法

わたくしも素人ですので詳しくは存じません。
仮に初期以上にタヒチ以降の作品に高い評価が得られるとするならば、やはり当時流行った文学上の「西洋文明批判」と相通ずるものを見出すからではないでしょうか。
つまり、当時における西洋文明の様々な「病み」を革新するために、原始主義的価値観の復興をゴーギャンみずからが身をもって実践したことは、ある意味において印象主義をも超える大胆な「前進」だったでしょうから、相対的に初期の作品が評価されにくいのかもしれません。

ゴーギャンの絵画技法も一概には評価しづらいかと思われます。
文明人としての決別を目指して渡った南の楽園においてでさえ、彼はそれまでに思い描いていた理想と現実との「乖離」に苛まれました。
このやるせない「隙間」を埋めるべく、例えば謎めいた「青い土着神」のように、現実世界のものではない「ゴーギャン自身の夢想からの産物=象徴」によってひたすら補い充たそうとしたのではないでしょうか。
わたくしにはそのような気がしてならないのです。

ああ、なにかもっともらしいことを書けば書くほどに陳腐な表現に陥るのはなぜでしょう? 
つまらないですね~(笑)

>ゴテゴテしている大作よりも、説明を必要としない美しい小品のほうが、佳作といえることも少なくはないからです。

う~ん、これは嗜好の問題かもしれませんね。
例えばどの絵画がこの例えとして挙げられますでしょうか。
こっそりご教授くださいませ♪
総じて大作になるにつれ迫力も比例するように感じられるものの、ダ・ヴィンチのように解剖学や遠近法などといった科学を絵画に凝縮した小品もあったりしますし、なかなかに絵画鑑賞というものは楽しいですね。
これだけ勝手に?熱い解釈?が行われているのですから、上野のゴーギャン展の鑑賞券を回答者全員にくれてもいいのに?!←せこ

>マシュマロ先生は、すっきり派なのでしょうか?

さあ、どうでしょう。 ご想像にお任せいたします。
ただ言えることは「ママらしいね。」「マシュマロらしいね。」が何より一番嬉しい褒め言葉ということでしょうか。
我が作品群はまさしく「個人的には駄作、あるいは二流そのもの」ですから(笑) 

投稿日時 - 2009-06-05 10:11:58

補足

マシュマロさんのお考えになる、よい絵とはどういうものでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-07 22:49:32

お礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。私は、これまで絵画にほとんど興味はなく、絵を書かせても小学生の図画にも劣りますので、描き手の難しさには考えが及びません。そのうえで申し上げるなら、キリコの『ヘクトールとアンドロマケの別れ』には、非常に感銘を受けました。マグリットも好きですね。年代は若いですが、両者には哲学的な奥深さを感じます。実は、以前に恋人とウィリアム・モリス展に出掛けた時に、ちょっとした口論になりました。彼女が、「モリスは、絵がヘタクソでつまんない」とのたまったのです。私は「うまいかヘタかは大して問題ではない。面白いか面白くないかが肝心だ」と返すと、彼女は「だから、ヘタクソだからつまんないと言ってるでしょう」と譲りません。彼女はルネッサンス様式の写実画が好きなようですが、私には、写真のある現代に、写実画のどこがいいのか理解できませんでした。もちろん、デッサン力は重要でしょうが、画家の視点に驚きを感じない絵など、私にとっては、意味がないのです。まあ、これほど考え方が違ってはうまくいくわけもありませんが。お粗末でした。ところで、ゴーギャンは写実は苦手なのでしょうかね?

投稿日時 - 2009-06-07 23:25:04

ANo.60

 No.56を受け継ぎます。

 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 他のご回答にも、参照しましたとおり、「みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。」伝道者の書3:20。これについてはいかがでしょうか?よろしければお答え願います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もし この《コヘレトの言葉》を参照なさるのなら その結論にも留意せねばならないでしょう。
 ▲ (伝道の書=コヘレトの言葉12:13-14) ~~~~~~~~
 すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。

 神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ けれども 《戒め》は 《神の愛および人間の愛》 これだけになりました。《裁き》は なくなりました。(強いて言えば 人間は みづからを みづからが 裁くようになるでしょう)。旧約は たしかに 旧いのです。

  ▲ (ヘブル書8:7-13)~~~~~~~~~~~~~~~~
 もし、あの最初の契約(* むろん モーセの)が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (旧約・エレミヤ書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《ちりから出た》ことは もはやどうでもよい。《ちりに帰る》ことは その前の生が 問題であることを言っています。つねに問題は 現在そして此処ということでしょう。

 減らず口をたたくならば ゴーギャンは つまらないです。ピカソよりは ましかも知れません。という鑑賞眼の持ち主です。
 ★ われわれの肉は永遠から見れば、瞬きほどの時しか与えられていないのに、われわれの起源を問うことをやめられないのです。
 ☆ 自由ですが キリスト者には ありえません。

投稿日時 - 2009-06-05 07:19:20

補足

私も、特にゴーギャンが好きなわけではありません。他に、ご興味を惹かれる画家があるのですか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-07 22:08:15

お礼

ご回答いただきありがとうございます。私はキリスト者とはいえません。大切なのは、現在とこの生であることは間違いありませんが、キリスト者しかいなくなれば、生命の起源を究明しようとする者はいなくなるのですね。科学と宗教の分離が、この世界の喜劇であります。

投稿日時 - 2009-06-07 22:16:35

ANo.59

No.49にて少し触れましたが、配色に関する一つの解釈を書いてみます。

1.画面中央の光が当たっているように見える三角形の領域(人物)を生への方向性と見てみる。
2.光が当たっていないように見える、大地・褐色系の領域(人物)を死への方向性として見てみる。

さて、No.8にて引用させていただいた
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin.html
ですが、ここでの作品解説内部に、非常に示唆に富む記述が多く含まれています。

まず、主題となる絵の中央やや向かって左手に描かれた青い像は(既に指摘のあるように)月の神ヒナと解釈されたり、創造神タアロアと解釈されたりするようです。
>>>http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_nous.html
画面左部分に配される神像は、祭壇マラエに祭られる創造神タアロア(タヒチ神話における至高存在)とする説や、月の女神ヒナとする説が唱えられている。
<<<

月の女神ヒナについては、
>>>http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_hina.html
ヒナ・テ・ファトゥ(月と大地、月と地球、月と地の神)
(Hina Te Fatou (La lune et la terre)) 1893年
114.3×62.2cm | 油彩・画布 | ニューヨーク近代美術館

≪月の神ヒナと大地の神ファトゥ≫とは月の神ヒナが必ず死が訪れる哀れな人間が再度、生を受けられる(生き返る、又は不死)ように大地の神ファトゥへ懇願するものの、ファトゥがその願いを拒否するという逸話
<<<

また、創造神タアロアについては
>>>http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_atua.html
この三名には誕生(身体の前面をこちらに向け小さく横たわる者)から生(水辺で髪を梳かす女性)、そして死(背中を向けて横たわる者)へと経過する人の一生の象徴化であると考えられており、ゴーギャンが抱いていた死生観や人生への不安など精神的心理を見出すことができる。そして生を謳歌する髪を梳かす女性の背後にはタヒチ文化を代表する神像である祭壇マラエに祭られる創造神タアロアが配されており
<<<
といった記述があります。

で、青い像の二重性(多義性)を「or(どちらか)」と読み取らず「and(どちらも)」とするならば、たとえば、東洋系の輪廻概念(生き返る)と西洋系の創造神的な概念、すなわち、生から死への一方向への流れとが合わさっていると考えてもいいでしょう。

さて、件の絵をよく見ると、右下の赤ん坊から続く道が青い像(の立つ丘)を挟んで二方向に伸びていることが分かります。

右側では、ループを描く赤い(ないし褐色の)路に沿って奥に佇む一人の女性、と小さな樹木のトンネルを抜けて出てきた二人の女性が描かれています。その左下の女性の首は光の当たっていない領域に描かれており、不自然な程不明瞭です。右下には3人の女性が赤ん坊を取り囲んでいますが、右端の一人の肌の色と残りの2名の下半身の肌の色は光の関係からか大地の色とほぼ同じ色彩が用いられています。冒頭の色の解釈を採択するとすれば、赤い(ないし褐色の)路のループは生から死、そして死から生への輪廻を描いているとも取れます。

左側への路は一方通行のようであり、配色から見て、生から死への路を描いているようにも取れます。

ゴーギャンは自らの命を絶つことで、娘アリーヌが「どちら」の路を通ったのか? を自ら知ろうと思ったのかも知れません。

もし、ゴーギャンが輪廻の有無を「どちらか」といった二者択一を想定して(すなわち、両立が「不可能」な図形として)書き込んだとも取れますが、両立が「可能」な図形として解釈することも可能です。たとえば、量子力学の多世界解釈を採択するような人々にとっては、(決して交わらない)並列する二つの世界への分枝を想定するだけになるでしょう。

さて、色彩に関する第2の解釈も可能だと思います。

それは、国旗の色です。
フランスの国旗(Tricolore)は、「青(自由)、白(平等)、赤(博愛)」ですが、タヒチの国旗には、「黄色」(高貴)が含まれています。
これらの色を用いた配色部分を解釈時に多義的に重ね合わせることで、さらに作品を深く読み込むことができるように思われます。
たとえば、左端の一方通行の死の背後に白が用いられていますが、「平等」という意味を重ね合わせることもできますし、赤い路を「博愛・友愛」という概念で見ることで、(正の方向としての)輪廻概念に対する人々の思い・想いを感じることもできます。
無論、青い偶像は「自由」であり、二つの路のどちらを選択するのか?が「自由」であるともとれます。

あとNo.53の補足欄に記載されている
>>>
自己紹介に書かれている、スッタニパータと光厳院との言葉は、本題と多いに関係があると思われます。よろしければ詳しくお教え願います。
<<<
ですが、こちらにて記述するには、あまりにも「かけ離れた」内容を記述せざるを得なくなりますので、原本(ないし原本に準ずる記述)を参照されることをお勧めします。

投稿日時 - 2009-06-05 03:09:56

補足

あの偶像は、月の神ヒナと、大地の神ファトゥと、創造神タアロアとの、三つを組み合わせた、ゴーギャンの想像の産物とはいえないでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-07 20:10:55

お礼

自然さん、ご回答いただきありがとうございます。配色については、深く考えていませんでした。鋭いご指摘ですね。赤い小道がループを描いているのは、輪廻観を表しているのでしょうね。私も、この絵を見かけた当初は、なぜかメビウスの輪を連想しました。もしかすると、ゴーギャンの輪廻観が伝わったのかもしれません。またトリコロールに関しましても、老女の背後の白は、涅槃を意味するのかもしれません。ゴーギャンは好んで黄色を用いますが、ゴッホの影響か、あるいは大地を表しているのか、タヒチのイメージなのでしょうか。色の暗示するところは、画家であるゴーギャンが使わないわけがありませんので、ご指摘を受けて今一度、絵と向き合って考えてみます。偶像にも、タヒチのオリジナルにはない、何かの意味があるのでしょう。

投稿日時 - 2009-06-07 20:39:18

ANo.58

こんばんは、pokoperopoさん。

突っ込んだおぼえはないんですが…。

●日本財団って笹川良一が設立したって知ってますか?

それが、何か?

船舶・船とフレンドシップとくれば、有人深海調査艇しんかい6500。

YouTube - Dragon Ash/運命共同体 【PV】

【蔵出し】
http://fserc.kais.kyoto-u.ac.jp/
http://www.maizuru.marine.kais.kyoto-u.ac.jp/
※ 見知らぬ生物は素手で触らないようにしましょう ※
http://www.maizuru.marine.kais.kyoto-u.ac.jp/tango/kiken.html
http://www.fserc.kais.kyoto-u.ac.jp/data/panel/02A.doc

投稿日時 - 2009-06-05 00:45:13

補足

深海といえば、「しんかい」。生命の神秘を感じさせます。今はどれくらい潜れるのでしょうね?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-07 03:32:20

お礼

リトルキッスさん、ご回答いただきありがとうございます。日本財団は、URLに貼ってあったぢゃありませんか。「地球は一家、人類は皆兄弟」。ぽこぺろぽは、Earth,Wind&Fireが好きです。彼らもいろいろ考えたと思いますよ。太陽崇拝の気が強いですが。深海探索も結構ですが、イソギンチャクにはご注意を。

投稿日時 - 2009-06-07 03:40:36

ANo.57

 j59fmk53jhです、ご返礼ありがとうございます。
 誤解いただかぬように念のために申し上げますが、私は、神の存在を肯定はしておりません。しかし、否定もしておりません。pokoperopo様が、「神が地球を作った。だから、地球があるのが神のいる証拠。」などという、仮定の証明に元の仮定を使うような、循環参照破綻論理を持ち出されることがなかったので、ほっとしております。「火星人がいて地球監視のために月を作った」と私が提唱し、その月を指して、「あそこに月があるのが火星人がいる証拠。」などと言っても、誰にも相手にされないでしょうから。
 pokoperopo様のおっしゃるとおり、現時点では地球は奇跡の星です。ですが、現在の科学力で観測にかからぬということは、現在の科学力で観測できる範囲にはいそうも無いようだということが言えるだけで、宇宙人は地球人だけなどということはなにも証明していません。
 カール・セーガンなどが、生命存在可能性率的な計算をしているようですが、これも仮定にすぎません。私の立場は判断不能です。そして、どちらの立場の方たちにもお願いしたいのは、仮定に基づく理論の展開ではなく、まづ仮定そのものの証明です。
 「仮定そのものの証明」という部分が、何の証明も無く自明の理とされて、その先の話ばかりをされても、土台のあやふやな砂上の楼閣では安住できません。ぜひ、お願いですので、まづ、「神の存在」を証明し、土台に揺るぎのない安住の地を与えてください。これは、神を信づる方たちが解決すべき命題ですし、神を信づる方たちにしか解決できない命題です。そして、その証明ができるまでは、人々に神にかかわる話をするときには、神を既定の証明された存在としてではなく、「私たちは、このような推測に基づいて神の存在を信ずるが、その私たちの推測に基づいた神に……。」という話しかたをすることが、否定も肯定もしない(判断材料不足で判断不能)私のようなものから見ますと、正しい表現なのではないかと思いますが、いかがでしょうか?

投稿日時 - 2009-06-04 02:59:09

補足

それでは、おっしゃられた立場から、仮定でもかまいませんので、(【Q-2】われわれは何者か?)について、ご考察をお伺いしましょう。特に論証は求めません。よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-05 00:31:18

お礼

ご回答いただきありがとうございます。実は、私はキリスト教に片足を突っ込んでおりますので、「地球が存在するのが、神のいる証拠」と言ってしまいたくなることがあります。しかし、この言辞は有神論者間でしか通じず、しかも、神の存在の客観的証明とはなりえませんので、あなたとの対話では封印しましょう。現在の科学では、「万物理論」の研究が盛んだそうですね。つまり、宇宙空間も含む、すべての物質を探求することにより、万物における共通理論を説明する試みです。私も不勉強なもので、そのさわりすらご説明できませんが、われわれは微生物と同じく、何らかの要因があって存在するわけです。しかし、人間だけが、この質問主題のような問い掛けをする知性を得たのはなぜかと考えると、陳腐な言い回しですが、「生命の神秘」としか言いようがありません。他のご回答者にもお薦めしたのですが、このような問い掛けを考えるときに、役立つ本がありますので、よろしければご参考までにどうぞ。(『「知」の欺瞞』アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン/岩波書店)

投稿日時 - 2009-06-05 00:53:05

ANo.56

 pokoperopo さん こんばんは。参考になる文章を見つけましたので 投稿いたします。

 
 【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
 【Q-2】 われわれは何者か?
 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?

 ▲ (アウグスティヌス:クリスチアニスムのおしえ1・34)~~~~~~~
 使徒(パウロ)は 

    たとえこれまでは肉にあってキリストを知っていたにしても これ
   からは知るまい。(コリント後書5:16)

 ・・・ただし

    うしろのものを忘れ 前のものへと体を伸ばし(ピリピ書3:13)

 て追っているが もはや道の始めを通り越している。つまり真理に到達し 永遠の生にとどまりつづけることを願うすべての者が近づいてそこから歩き出さなければならぬ道の始めは パウロにとってもはや必要ではなかった。
 そこで

    わたしは道であり 真理であり 生命である。(ヨハネ福音14:6)

 と述べられている。これは私を通って 私へと辿り着き 私の中にとどまるりつづけるものとされる ということである。
 たしかに み子ご自身のもとに到達したときには 父のみもとにも辿り着いているわけである。それは至高で不変のよきものにとどまらせてくれる聖霊が われわれをあたかも膠でつけるように結びつけるとき 等しいものが等しいものによって知られるからである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ かくて 
 ○ われわれは どこから来たかは もはやどうでもよい。
 ○ われわれは 《道であり 真理であり 生命である》存在のもとに 永遠の現在を生きるものである。
 ○ そこが われわれの行くところである。

投稿日時 - 2009-06-03 23:44:23

補足

他のご回答にも、参照しましたとおり、「みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。」伝動者の書3:20。これについてはいかがでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-04 23:55:00

お礼

ブラジュロンヌ閣下、ご回答いただきありがとうございます。他のご回答者もしてきなさるとおり、物質の存在原理が未解明である以上、この問いには答えようがないのかもしれません。また、聖書にはこうもあります。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終りまで見きわめることができない」伝道者の書3:11。われわれの肉は永遠から見れば、瞬きほどの時しか与えられていないのに、われわれの起源を問うことをやめられないのです。

投稿日時 - 2009-06-05 00:07:47

ANo.55

こんばんは、pokoperopoさん。

リンリンリリン リンリンリリンリン
リンリンリリン リンリリリリン
リンリンリリン リンリンリリンリン
リンリンリリン リンリリリリン
リンリンリリン リンリンリリンリン
リンリンリリン リンリリリリン ワオ

君のテレフォン・ナンバー6700 ワオ-☆


●苔類と人類は、仲間といえるとお考えでしょうか?


もしもし

【海洋科学から見る水惑星の多角的視点にたつ基盤研究】
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00825/contents/029.htm

【日本語の誤用】(触手と食指)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%AA%A4%E7%94%A8

投稿日時 - 2009-06-03 21:04:56

補足

ありゃま、突っ込まれちゃいました。何かおかしなこと言いましたっけ?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-04 12:27:24

お礼

リトルキッスさん、ご回答いただきありがとうございます。懐かしいですね、フィンガー5。ワオ!今からでも遅くはないから、本家ジャクソン5と競演してほしいものです。地球には水がありますね。これって奇跡とはいえないでしょうか?ところで、日本財団って笹川良一が設立したって知ってますか?われわれ人類には、大きく貢献していますね。ヒトデに触手すると大変そうです。クラゲよりはマシですがね。

投稿日時 - 2009-06-04 12:35:56

ANo.54

j59fmk53jhです。御返礼ありがとうございます。
さて、前回私が書きました回答内容のうち、
 『《神の存在の証明》と、表裏一体を成す、知的生命体が持つ、根源的設問です。
 物質の存在理由がわからぬ限り、回答不能です。』
につきまして。
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
 これは、私たち(自ら)はなぜ存在するのか? 何か理由があるのではないのか? 自ら(たち)の存在意義(理由)を知りたい。等の、私たちが存在するという事実に、理由付け(証明)ができないことに対する不安から表出した問いではないかと思います。
 その解を求めるアプローチの一つとして、私たちの物質的構成の探求があると思いますが、ここで行われていることは、根源的構成要素の確認であり、人間の生存にかかわる物質の製造に関する是非とも必要なものです。
 しかし、これによって得られる、物質の根源的構成要素の確認という解は、人類の存在意義の解を求めることを、物質の存在意義の解を求めることに、置き換えるだけではないかと思います。根源的構成要素の確認によって、その存在意義が確認できる可能性も否定はできませんので、確実にそうだとは言い切れませんが。
 では、物質の存在意義の解を求める探求は、どのようにおこなったらよいのでしょう。残念ながら、まだそのアプローチの手掛かりすら掴めていないというのが正しい現実認識ではないかと思います。
 ですので、『物質の存在理由がわからぬ限り、回答不能です。』とお伝えしました。ですが、ここまでの文字列に、物質の存在意義の解を求める探求は、不可能であるとか、無意味であるとかの、否定的な表現は書かれておりませんし、また、言外に臭わせてもおりません。要するに、現状認識からできる回答をしているだけです。
 『《神の存在の証明》と、表裏一体を成す』につきましては、物質の存在意義の解として、神の存在を持ち出すことも思考の自由であり、ただちにその事自体を否定するものではないと思いますし、その方たちにとって、神が物質を作ったという何らかの証明を行う必要があると思いますので、『表裏一体を成す』と書きました。
 続きまして、
『慌てて宗教に落ち込まぬようご注意を。』
につきまして。
 物質の存在意義の解として、神の存在を求める方たちの中には、証明されていない神の存在という仮定を、あたかも規定の証明された事実として扱い、まだ未解明であるという事実から人々の目を逸らせ、結果として、解明に向かうべき人々の能力を浪費させている方たちもいますので、私自身も含めて『御注意を。』と戒めさせていただきました。
 なお、『わからなくても道筋をつけるのが哲学です。よろしければ、私や皆さんと一緒に、この根源的設問を考えていただけませんか?』とのお誘い、有り難くお受けさせていただきます。ですが、私は物質の存在意義の解に、神を持ち出すことはとりあえず考えておりませんので、そのことを御了解戴けますでしょうか?
 御納得戴けますれば、御招待ください。では。

投稿日時 - 2009-06-02 22:05:36

補足

無神論や不可知論に関しましては、いかがお考えでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-03 18:24:43

お礼

ご回答いただきありがとうございます。そのように、お考えをはっきりおっしゃられたうえでの、ご回答は大変有り難く思います。私は、神を信じる立場の者ですが、神を立証する手だても持たなければ、その必要もないと考えております。また、このような議題におきましても、必ずしも神を肯定するご回答でなくても問題はございません。しかし、信じるか否かは別として、神とは何かという問い掛けを常にしております。それは、あなたや私が存在する、この世界があることが奇跡であり、これぞ神の証明であると考えております。私とは違う観点からのアプローチを歓迎します。物質とは何か、生命とは何かは、現時点ではわかっておりません。それを究明することは、科学の進歩だけでなく、人心の健全化にも大きく寄与するでしょう。科学的にはわからないとするご回答もあり、私自身がそう述べてもおりますので、よろしければ質疑応答にもお目をお通しください。今のところ、この地球以外に知的生命体は認められていません。このことに、われわれの存在理由があるような気もしますが・・・。

投稿日時 - 2009-06-03 18:45:52

ANo.53

一つの説(たとえば玉玉混淆の玉)として「ゴーギャンが中央に描かれている」というのも「あり」でしょう。

もう一つの考え(たとえば石石混淆の石)として「ゴーギャンは生死を越えて絵に向かい続けている」というのも「あり」なのではないでしょうか?

>>> http://gauguin2009.jp/items4.php
これらの人物像のほとんどは、ゴーギャン自身の作品の中で頻繁に描かれてきたモチーフのヴァリエーションであり、それらモチーフはまた、彼が主に写真や複製を通じて親しんでいた世界中の様々な美術作品や遺物のイメージをその源泉としている。旧約聖書の楽園追放を想起させる中央の人物はレンブラント派の素描に基づき、さらにインドネシア、ジャワ島のボロブドゥール遺跡からの影響も見られる。(中略)古今東西様々な出自を持つモチーフが、ゴーギャン一流の手の込んだ変奏と融合を被った上で、夢幻的な空間の中にまるでコラージュのようにちりばめられている。
<<<
>>> http://gauguin2009.jp/items4.php
ゴーギャンの言葉
私は、死を前にしての全精力を傾け、ひどい悪条件に苦しみながら、情熱をしぼってこれを描いた。
そのうえ訂正の必要がないくらいヴィジョンがはっきりしていたので、早描きのあとは消え、絵に生命が漲ったのだ。これには、モデルだの、技術だの、規則だのと言ったものの匂いはない。 このようなものから、私は、いつも自分を解き放ってきた。ただし、時には不安を覚えながらね。

「タヒチからの手紙」(岡谷公二 訳)からの抜粋
<<<

。。。「どこから?」
彼は、彼の知り得た知識といままで描き続けてきたあらゆるモチーフの全て、すなわち彼自身の全てから、彼自身の抱いている(抱いていた)イメージをキャンバスに投影した。
。。。「なにもの?」
そうして、ほとんど全ての視線を描いている自身に向けさせている。
。。。「どこへ?」
その状態で、自身の生命を絶とうとした。
向かう先は、絵画の中?(玉・玉座?)、それとも向こう側?(石・意志?)

※東京国立近代美術館の「ゴーギャン展の作品解説」が参照できたのですね。。。
最初の拡大像のスクロールは圧巻ですね。

参考URL:http://gauguin2009.jp/items4.php

投稿日時 - 2009-06-02 05:43:27

補足

自己紹介に書かれている、スッタニパータと光厳院との言葉は、本題と多いに関係があると思われます。よろしければ詳しくお教え願います。

投稿日時 - 2009-06-03 15:06:42

お礼

腎炎さん、ご回答いただきありがとうございます。コーカソイドとモンゴロイドでは、輪廻観が大きく異なりますね。しかし、最も輪廻観を強く持つのは、オーストラロイドではないでしょうか?ネシアの島々に住む者たちの輪廻観は、ヒンズー教徒にも影響を与えたと考えるのは、勘繰りすぎでしょうか?ゴーギャンは多義図形的な意図を持って、この絵を描いたことは疑いようもなく、様々な見方ができるので、皆さんから示唆していただいたことは、大いに参考になります。しかし、名古屋ボストン美術館で本物を前に、足が棒になるまで作品を見つめていましたので、作品解説と私の印象は食い違いますし、ゴーギャン自身が余すところなく、作品を語っているとは思えないのです。ゴーギャンは無意識に、自身の人生を作品に投影させていますし、キリスト教とタヒチ土着信仰の交錯も垣間見えます。ただひとついえることは、作中の女たちは、ゴーギャンとわれわれを見つめながら問い掛けていることです。それをもってしても、多義図形的であることを裏付けるものですが。不可能図形とは、また区別しなければならないのですね。自然さんも、機会がありましたら、ぜひとも本物をご堪能いただきたいと願います。また違った発見があることでしょう。お薦めいただいた本は必ず読みます。(積読書を片付けるまで、着手できませんが)それからもうひとつ、ご興味がおありでしたら、こちらの拙問を覗いてみてください。〈父、子、聖霊〉の《三位一体》は、等質かつ等価であるか?qa5008585

投稿日時 - 2009-06-03 15:47:26

ANo.52

《神の存在の証明》と、表裏一体を成す、知的生命体が持つ、根源的設問です。
 物質の存在理由がわからぬ限り、回答不能です。慌てて宗教に落ち込まぬようご注意を。

投稿日時 - 2009-06-02 05:30:12

補足

ご指摘の、回答不能という意味は理解できます。しかし、回答不能にも拘わらず、ゴーギャンが問い、これほど多くのご回答が寄せられたのは、なぜでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-02 18:38:53

お礼

ご回答いただきありがとうございます。生命の起源や物質の存在過程は解明されておりません。このことは、他のご回答者も私も指摘しており、正答が確認しようもないことは、言うまでもありません。
>《神の存在の証明》と、表裏一体を成す、知的生命体が持つ、根源的設問です。~まさにおっしゃるとおりです。われわれは、科学が神や生命の存在の秘密を突き止めるまで、この問いを封印しなければならないのでしょうか?宗教に解決の糸口を求める者もあれば、哲学に求める者もいます。古代の哲学は、物質の成り立ちを問うことに、多くの労力を割きました。あらゆる物質は、《地、風、火、水》の、四要素で構成されていると考えられていたのです。地球を中心に、天が動いているとも考えられてしました。地球が円いことも知らなかったのです。今でこそ、こんな説を唱える者はいませんが、間違っていたからといって、先人が愚かとは言い切れないでしょう。こうして、探求しつづけるのが、われわれ人類です。わからなくても道筋をつけるのが哲学です。よろしければ、私や皆さんと一緒に、この根源的設問を考えていただけませんか?

投稿日時 - 2009-06-02 19:07:25

ANo.51

こんばんは、pokoperopoさん。

きみが- よ-は ちよに-- やちよに
さざれ  いしの いわおと  な りて
こけの  む - す -  ま -- で 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kimigayo.png


【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
【Q-2】 われわれは何物か?
【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?

【コケをわかる 2.コケの特長と生活史】
http://www.ous.ac.jp/garden/intro/wakaru2.html
【ゼニゴケシダ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8B%E3%82%B4%E3%82%B1%E3%82%B7%E3%83%80
【二つの時代を生きる植物:シダ】
http://www.biological-j.net/blog/2007/08/000272.html

投稿日時 - 2009-06-01 20:08:18

補足

苔類と人類は、仲間といえるとお考えでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-03 13:13:03

お礼

リトルキッスさん、ご回答いただきありがとうございます。伊勢神宮にある「さざれ石」をご覧になりましたか?風雪を経るとは、まさにあれですね。コケを見ていると気持ちが和らぎます。これも、日本人のDNAに刻まれているのでしょう。生命の起源が同じだとしたら、人類と他の生物は、なぜこうも違うのでしょうね!?

投稿日時 - 2009-06-03 13:21:56

ANo.50

pokoperopo様、こんにちは!
いつもながらの鋭い洞察力と作品に対する真摯な態度に頭が下がる思いです。
是非とも見習わねば。

あのですね、昨日『NoaNoa(ノアノア)』(ちくま学芸文庫)というゴーギャンのタヒチにおける冒険譚を読んだのですが。
もうとっくにお読みになっていらっしゃいますでしょうか。

>画面中央の人物は、ゴーギャン自身に違いありません。彼がのっぺらぼうに近いのは、自虐したゴーギャンの人格を投影したくなかったからでしょう。馬鹿げているどころか、私も唯一ともいえるほどに、確信が持てる点です。

上述のpokoperopo様のご主張に絡み、p46~47を以下に引用させていただきます。

「タヒチでは、森や海の大気が肺を強健にし、肩幅や腰を広くし、海辺の石や陽の光は、男も女も容赦しない。 女たちは男と同じ仕事をこなし、男たちには女の懶惰がある。 なにか男性的なものが彼女たちのうちにあり、彼らのうちにはなにか女性的なものがある。 両性のこの類似のために、彼らの関係はむずかしいものではなくなり、いつも裸でいても、まったく潔癖であり、風俗のなかから、未知なるもの、謎めいた特権、偶然、あるいは上首尾にいった窃盗といった観念のいっさいが取り除かれている─文明人における愛のサディスティックな特徴のいっさい、恥ずべきこそこそした色合いのいっさいが。
 「野蛮人」にあっては、両者間の違いが希薄なために、男と女は、恋人になると同じく友人にもなるのであり、悪徳と言う概念そのものもなくなってしまうのだが、何故また、この違いの希薄さが、ふいに、真新しく未知なるものの恐ろしい魅力をともなって、悪徳という概念をおいぼれの文明人に呼び起してもいたのだろう。
 私達はただ二人きりだった。
 なにか罪の予感がした、未知なるものへの欲望、悪の目覚めを私は感じた。 ついで、つねに強く、保護するものでなければならぬ雄の役割に嫌気がさした、担わねばならぬ重い肩に。 愛し従うかか弱い存在にひとときなってみること。…」

仮に中央の人物がゴーギャン自身を投影したものだとするならば。
pokoperopo様のご主張「私にはゴーギャンの芸術センスはともかく、彼に慈念さんのような明晰さがあったとは思えないのです。」が、おおいに頷けるだけに、その人物とは「雄を意識した従来の文明人的な男性ゴーギャン」としてではなく「野蛮人であるタヒチの男性のように【両性具有】化したゴーギャン」として描かれているのだと思いました。

>ゴーギャンのユートピアと走馬灯の錯綜です。
>少ないモチーフで、死生観や世界観を端的に表せなかったので、多義図形的な観点から表したのだと思います。
>美しい真理は常にシンプルです。死に行く彼に、そのプロセスを微細に説明する時間は残されておらず、見たもの、描いたもの、夢見たものをちりばめたのが、あの作品ではないでしょうか?
>彼の魂は今もさまよっているのです。

なるほど、素晴らしい推察ですね!
でもね、
>ある意味、大いなる失敗作ではないかと考えております。
>そこがまた、彼のミステリアスな魅力でもありますが、もう少し彼が達観していたら、最も美しい一点に絞れたのではないでしょうか?

う~ん、これは言いすぎじゃあないでしょうか?(笑)
彼の表現スタイルが、よりプリミティヴにかつ、主観的なものに象徴(シンボル)を希求していく方向に向かっていったわけですから、カオス的雑然とした世界観こそを絵画上の至上命題としていたのではないでしょうか。

>ゴーギャンの唱える〈言葉の虚しさ〉を知るのが、『創作者たるマシュマロ』の価値命題なのではありませんか?

う~ん、『創作者たるマシュマロ』の箇所に〈言葉の虚しさ〉を痛感させられました。
余計なお世話なんだから、んもう!(笑)

ps:『部分と全体』ハイゼンベルク/みすず書房
了解致しました。ご推薦をありがとうございます。
『知の欺瞞』は『遅の欺瞞』と化しつつあります♪

投稿日時 - 2009-06-01 11:55:38

補足

初期のゴーギャンの印象派的な作品群は、個人的には駄作、あるいは二流そのものであると考えておりますが、これは素人考えでしょうか?実は、美術カテで、ゴーギャンの絵画技法について質問するつもりでおります。よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-03 11:45:53

お礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。ご指摘の、『ノアノア』は、恥ずかしながら未読であります。ゴーギャン存命時に、出版が頓挫したところから、軽視しておりました。われわれにとっては、必読書ですね。こりゃまた、痛いところを衝かれました。他の推薦書ですが、過去の拙問、「岩波文庫」qa4826500を、ご参照ください。素晴らしい本ばかり、ご推薦いただいております。未開のタヒチでは、男女の役割差が少なく、交錯している印象がありますね。ゴーギャンの描くタヒチの女たちは、力強ささえ感じられますが、画面中央の人物には雄々しさが見られません。さすがですね、ここらへんはもう少し考える必要があるでしょう。大いなる失敗作かもしれないとは、言い過ぎではありますが、ゴテゴテしている大作よりも、説明を必要としない美しい小品のほうが、佳作といえることも少なくはないからです。しかし、カオスであるから、ゴテゴテしているのでしょう。敢えて、ゴーギャンに対する熱情を、突き放すために否定してみました。マシュマロ先生は、すっきり派なのでしょうか?

投稿日時 - 2009-06-03 12:06:05

ANo.49

じねん&じんえんです(笑)

>>>
多義的要素も、混乱の一因となります。玉石混淆を見極める膂力を持たなければ、真に多義図形的な知覚を得るに到りません。
<<<

厳密に言うと「多義図形」と「不可能図形」とは概念的にずれています。

多義図形で有名なものは「婦人と老婆」の絵です。

絵にしても、記号にしても、言葉にしても、多義性という概念から逃れることは出来ません。(そういう意味からして、可能図形としての多義図形に該当します。)
http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/tagi3.html

「われ」を含む主体(たとえば「われわれ」)と「絵」との出会いにて生じうる「意味・概念」に対し「玉石混淆だ」という概念が生じる場合には、そのような多義性は意識すらされることはないでしょう。すでに「玉とは何か・どういった概念か」が意識されているわけですから。

多義性が強く意識されるときは、「われ」を含む主体(たとえば「われわれ」)と「絵」との出会いにて生じうる「意味・概念」に対し「玉玉混淆だ」という概念、ないし「石石混淆だ」という概念が生じる場合です。

>>>
輪廻感の程度の関連という、ご指摘の意味が理解できません。よろしければ詳しくお教え願います。
<<<

多くの神話は、○○の起源ないし原因についての説話を扱っています。
そこに書かれている言葉の中に「玉」を見いだしうる(すなわち「玉石混淆だ」といった概念で捉えうる)と考えた場合、そう考えるだけの理由(論理的思考)の枠組み・構造を内部に有していることが多いでしょう。

たとえば、
>>>
カナンの子孫がセムとヤペテの子孫の奴隷となると予言した
<<<
を、コーカソイドの視点から「玉」だとみなしたときに、歴史上の多くの民族の悲劇が生み出されてきました。

彼らに「もし仮に」輪廻の思想があったとしても、「コーカソイドの子孫はコーカソイド」であって、別の人種に生まれ変わるといった思想は生じ得なかったのではないでしょうか?

この場合、「輪廻の思想」はないでしょうが、輪廻「感」という言葉で表すならば、「輪廻感が弱い」といった概念で捉えることができると思います。ただし人種差別の根源を説話に(まで)求めようとする傾向、すなわち「因果・因縁」概念は「強い」と言わざるを得ません。

一方で、「強い輪廻感」を有するのは、コーカソイドからみた、いわゆる東洋世界の一部(特にヒンドゥー教)においてです。

その「輪廻感」を「無ないし空」にまで弱めたのが仏教でしょうが、「われ」や「因果・因縁」という概念をも含めて全てを「無ないし空」として扱うとすれば、たちまち「虚無思想」へと落ち込むでしょう。まさに、ごく最近まで西洋にて誤認されていたことと重なります。
>>>
ロジェ=ポル・ドロワ
『虚無の信仰』
2002 トランスビュー
Roger-Pol Droit : Le Culte du Neant 1997
島田裕巳・田桐正彦 訳
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0878.html
<<<

で、因果概念を否定しない場合、「われ」といった「個」の輪廻感を否定的にみたとしても、「われ」を含む「われわれ」といった「共同体」の背負ってきた歴史・背景の「われ」ないし「われわれ」への影響を否定することは出来ません。

たとえば「われわれ」を同一概念(たとえばコーカソイド、人類、または生命)として捉え続け、
「われ」は「われわれ」の内部から来て、「われわれ」を構成し、「われわれ」の内部へと帰って行くとすれば、「われわれ」の過去における所業の報い(すなわち、因果からの応報)を受けるべきものとして存在するとなるでしょう。
これでは、輪廻を否定したとしても、(因果を認める以上)逆に輪廻感が強いと言わざるを得ません。

一方で「われわれ」を別概念とすれば(ヒンドゥー教や仏教の諸概念と関連する「われ」の輪廻感の程度はどうであれ)
「われ」は(ある)「われわれ」から来て、(別の)「われわれ」を構成し、(更に他の)「われわれ」の内部へ行くことになるわけですから、構成員が完全に入れ替わってしまえば、「共同体の過去の歴史」に縛られることなく、(共同体としての)因果関係を完全に打ち消して再生することも出来てしまいます。そういう意味では、輪廻感が弱いとみて良いと思います。

一方で因果関係を否定せずに、「われわれ」を同一概念とし、「われわれ」を小規模な民族に限定せずに「全人類」ないし「全生命」ないし「全体」といった概念へと拡張する(ある意味「一神教化」する)を導入すれば、(限られた共同体としての)「われわれ」の過去の呪縛(因果)から逃れることも出来ます。

それはキリスト教の布教の歴史と重なり合うことでしょう。
>>>
フィリップ・レクリヴァン
『イエズス会』
1996 創元社「知の再発見」双書53
Philippe Lecrivain : Les Missions Jesuites 1991
垂水洋子 訳
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0222.html
<<<

本質問での主題となっているゴーギャンの絵をよく見ると、絵の上両端の「黄色」と同色系で描かれれている「光の明」の部分に相当する色で塗られた肌と「土色」と同色系の色で描かれている「光の影」の部分に相当する色で塗られた肌を有する人々とが認められます。「光の明」の部分は果実をもぎ取ろうとしている人物を含めて、画面中央からやや下方にかけての三角形の領域です。

前にも指摘しましたが、青い偶像と同系色の色は、上両端の黄色系の領域を除く背景(どちらかといえば、中央から右側)を満たしています。

これら配色の意図するところは想像の域をでませんが、「可能図形としての多義図形」ないし「玉玉混淆もしくは石石混淆」といった概念で捉えていいのではないだろうか?と思う次第です。

>>>
佐治晴夫
宇宙の不思議
PHP研究所 1990・PHP文庫1996
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1226.html
===
本書、佐治晴夫の『宇宙の不思議』は、このゴーギャンの問いから始まっている。まことに佐治さんらしい。
 佐治さんはゴーギャンにつづいて、鴨長明(42夜)の『方丈記』を引いた。そして、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の一文には、「絶えることのない流れ」という不変性と、「もとの水ではない」という変化性との両面の見方が捉えられているということを指摘し、その相反する見方の統一こそが宇宙や世界を見るのに必要だという示唆をした。
<<<

投稿日時 - 2009-06-01 04:47:01

お礼

人縁さん、ご回答いただきありがとうございます。いろいろ教えていただきました。詳しくはのちほど、#53のご回答への、補足と返礼にてお話しいたします。まずはお礼まで。

投稿日時 - 2009-06-03 11:14:01

ANo.48

pokoperopo様、こんにちは!

えっと、まだ回答を申し上げておりませんでした。
せっかくpokoperopo様から頂戴しているというのに。すみません。

>【A-1】われわれはちりから出た
>【A-2】われわれは働く者である
>【A-3】われわれはちりに返る
>神は人の心に永遠の思いを与えられた。しかし、人は神が行われるみわざを、初めからおわりまで見極めることはできない。
>以上の答えは「伝動者の書」第3章の抜粋であります。われわれは何もわからない。だから問い続けるのでしょう。われわれは皆、同じ属性を持ちますが、ひとりひとりに役割があり、それぞれの働きが生きる意味ではないでしょうか?分子レベルの小さな結合がわれわれで、役割を終えたわれわれは、また小さな分子へと帰っていくのだと考えます。

わたくしはかつて他の質問で、同様の回答をしたことがあります。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4515652.html 
No.15のnoname#76229がわたくしです。
「宇宙の塵として宇宙空間を彷徨い」の前後をご覧下さいませ。
【A-1】ならびに【A-3】のわたくしの回答に繋がる箇所に相違ありません。

pokoperopo様とは「神」の定義や「心のよりどころたるテクストの有無」の差こそあれ、かなり酷似していると勝手に考えております。
わたくしの場合、「神に興味が薄い」ものの、「神そのものの存在までは否定しているわけではないし、おそらく信仰に値するものがあるのだろう」とただ漠然とした想いを抱いているにすぎません。

また、ご回答の「【A-2】われわれは働く者である」は、この世に生まれてきた以上は何らかの尊い意味と役割をもっているのだから、それを大切にし果たすべく、不器用ながらも懸命に生きる、といったわたくしの考えと同様の意味をなすようにも思えました。

>「画面左端の家鴨が蜥蜴を捕えている図は、言葉の虚しさを表している」と彼自身が説明しているからです
>これらの女性との関係から、画面中央の人物以外が、すべて女であることや、「さまよえる女」の正体が、読み取れるかもしれませんね。いかがでしょうか?

なるほど、そういうことだったとは知りませんでした。
ご教授下さり、ありがとうございます。
「言葉の虚しさ」とは具体的に「何を表現するのに虚しい」とゴーギャンは想起したのでしょう。
また、絵画中の女性達に込められた想いの内には、ゴーギャン自らが関わってきた多くの女性たちへの回顧や憧憬、恋慕の念なども当然ながら加味されていたのかもしれませんね。
娘アリーヌはいったいどこに描かれているというのでしょう。

少し馬鹿げた発想なのですが、中央の女性ではないヒトが、何やらゴーギャンのように思えてきました。
ここはひとつ、pokoperopo様のご懸念通り、バタイユの「毒」に冒されてしまった挙句の迷走妄想と一笑に付して下さいませ、フフ♪

次は『知の欺瞞』をていねいに読了してからお邪魔させていただきます。
ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-05-28 09:13:34

補足

この質疑応答も、言葉のやりとりに他なりません。五感を働かせることが芸術への道でありましょう。触覚に関しましては、愛する人の手を取り、目を閉じて手に届く物に触れてみてください。聴覚に関しましては、“BRIAN ENO/THURSDAY AFTERNOON”を聴いてみてください。ゴーギャンの唱える〈言葉の虚しさ〉を知るのが、『創作者たるマシュマロ』の価値命題なのではありませんか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-06-01 01:55:51

お礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。あの絵の正体がわかりましたよ。つまりは、ゴーギャンのユートピアと走馬灯の錯綜です。#39のご回答とその補足やお礼をお読みになってください。私にはゴーギャンの芸術センスはともかく、彼に慈念さんのような明晰さがあったとは思えないのです。少ないモチーフで、死生観や世界観を端的に表せなかったので、多義図形的な観点から表したのだと思います。美しい真理は常にシンプルです。死に行く彼に、そのプロセスを微細に説明する時間は残されておらず、見たもの、描いたもの、夢見たものをちりばめたのが、あの作品ではないでしょうか?彼の魂は今もさまよっているのです。ある意味、大いなる失敗作ではないかと考えております。そこがまた、彼のミステリアスな魅力でもありますが、もう少し彼が達観していたら、最も美しい一点に絞れたのではないでしょうか?あの構図は群像とは呼べません。ゴーギャンが、娘アリーヌを描いたのかはわかりません。しかし、画面中央の人物は、ゴーギャン自身に違いありません。彼がのっぺらぼうに近いのは、自虐したゴーギャンの人格を投影したくなかったからでしょう。馬鹿げているどころか、私も唯一ともいえるほどに、確信が持てる点です。例に挙げられた質疑応答の質問者には甘えが見られます。b氏が、輪廻転生を哲学の主題に取り上げられることを、忌み嫌われるのも理解できます。マシュマロさんのお答えは、そんな質問者を甘やかすことなく、しかも優しさに溢れています。永遠も人生も美しいのです。しかし、美しいとは思えないからこそ、われわれは死を恐れるのです。ちりに帰ったからといって無になるわけではありません。再びこの宇宙に溶け込むのですから。われわれは《部分》の集まりです。《部分》としてのわれわれが経験し、神という名の《全体》にフィードバックされ、この世界を象るのです。もう一冊行ってみましょう。(『部分と全体』ハイゼンベルク/みすず書房)

投稿日時 - 2009-06-01 02:59:21

ANo.47

こんばんは、pokoperopoさん。

(/-)゛゛゛ゴシゴシ

うーん、みまちがいかな?

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
【Q-2】 われわれは何物か?
【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?

が、

【A-1】われわれはちりから出た
【A-2】われわれは働く者である
【A-3】われわれはちりに返る

に、置き換わってる???

ん?

それとも…

Qに対応させたAということなんだろうか???

われわれはちりに返るとあるけれど…

ちりに返ったわれわれはどこへ行くのだろう?

ちりぢりばらばらになるのかな?

ほでも、

分子レベルの小さな結合がわれわれで、

と、いっているのだから…

ばらばらのようでばらばらじゃないってことなのかな?

【群れ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4%E3%82%8C
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Heringsschwarm.gif

【QNo.3084601ほにゃらか形而左右学 数学、補論】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3084601.html

投稿日時 - 2009-05-27 23:33:36

補足

いろいろと示唆していただきましたが、取り敢えずの【Q1~3】の、具体的なお答えをお聞かせ願います。

投稿日時 - 2009-06-01 00:47:05

お礼

リトルキッスさん、ご回答いただきありがとうございます。群れですか。はい、あの絵は群れていますね。われわれは群れています。群れを離れて生きるのは、まず無理でしょうね。われわれはちりから生まれたのです。死んだらちりになるのです。その世界は無数のちりなのです。ちりが結合したのが、あなたであり私です。あなたと私、この世界に存在する者すべてがわれわれです。交換して考えたわけではありません。また、ご指摘のような、数学的見地からのご考察も興味深いものがあります。それにしても、リトルキッスさんはご自分のお考えをはぐらかすのですね。でも、本当はかなり深くお考えなのでしょう?

投稿日時 - 2009-06-01 01:11:04

ANo.46

>>>
持念さん、ご回答いただきありがとうございます。
<<<
jinen ... じねん:持念、慈念、寺粘、自然...、じんえん:腎炎、人縁、神縁、仁円...
ローマ字から漢字への変換だけを見ても多義図形的なので楽しいですよね。

>>>
通常であれば、数少ないモチーフの自然な構図においても、哲学的な問いは発せられると考えています。ゴーギャンが、多くのモチーフを登場させ、ご指摘の多義図形的な構図を用いたのはなぜでしょうか?よろしければお答え願います。
<<<

ゐき;ノア(聖書)
>>>
大洪水後 [編集]
その後ノアは葡萄を栽培していたが、あるときワインで泥酔して裸で眠ってしまった。ハムは父の裸を見て兄弟たちを呼んだが、セムとヤペテは顔を背けて父の裸を見ずに着物で覆った。ノアはこれを知るとハムの息子カナンを呪い、カナンの子孫がセムとヤペテの子孫の奴隷となると予言した。(ノアがなぜハムではなく息子のカナンを呪ったのかは諸説ある。恐らく選ばれた人であった「ハム」の悪い面を受け継いだ人であったのかもしれない。)

創世記の中で、「ノアの物語」を含む天地創造からバベルの塔にいたる物語は原初史といわれ史実を述べているというよりは世界の事物の意味、由来についてのユダヤ的見解を述べている部分と通常は考えられている(枠組み説による)。
<<<

聖書を含め宗教の物語的な側面においては、○○の起源についての説話が多数認められます。時としてそれらは全く逆の内容であったりします。

ヰキ:アダムとイヴ
>>>
★キリスト教
 女はその実を食べた
 ●祭司資料による伝承(『創世記』1:27-1:31)
  全能者である神エロヒムは自らにかたどって人間を創造した。
  男と女は同時に創造された。
 ●ヤーウィスト資料による伝承(『創世記』2:6-2:25)
  神はアダムを眠らせ、あばら骨の一部をとって女をつくった。
★イスラム教
 誘われて果実に手を出したのは妻ではなくアーダム
<<<

さて、「一組の多義図形」ではなく「多くのモチーフ」が絡み合う「多義図形」を考えると言うことは、たとえばQ1,Q2,Q3の3カ所で出てくる
a.「われわれ」は同じかどうか?
b.ちり(No.35およびNo.45のお礼欄での記載)という概念で記載される「もの」は同じかどうか?
c.全体(No.24での私の記述)という概念で表される「もの」は同じかどうか?
を考えるのと同じことだと思います。

端的には、「○○会社」とか「○○国」とか「○○教」とかいった概念で表される共同体を考えるとき、全体という概念への視点と、その構成メンバーへの視点をどのように処理するか?ということに繋がると思います。

構成メンバーが完全に入れ替わる状態を考えたとして、はたして「同一概念の共同体」ということで「同じ」とみなすことが出来るでしょうか?ということです。

このことは、説話全体が有する「もの」と各説話毎に対立する「内容」との関連であり、(原始)仏教の「我」と「非我(柄谷氏の言葉を借りれば諸関係の束)」との関連であるでしょう。そういった意味でこのような概念の二重性は、輪廻感の程度とも関連を有すると思われます。

この絵自体の各構成人物の視線の多くが「こちら側」を向いているということは、「われわれ」という一つの共同体概念として認識されようとする時に、「おのおの」という個々の構成要素がそれぞれに自己主張をしているようにも見えます。「多義図形」という一つの概念が、多義図形を構成する各要素自体から切り離されては存在し得ないように。。。

投稿日時 - 2009-05-27 21:50:53

補足

輪廻感の程度の関連という、ご指摘の意味が理解できません。よろしければ詳しくお教え願います。

投稿日時 - 2009-06-01 00:15:03

お礼

慈念さん、ご回答いただきありがとうございます。多義図形的に考察する必要はわかってきたと思います。しかし、これには問題があります。錯視による混乱の危険があることです。エッシャーのだまし絵などは、これを巧みに利用して、ありえない構造物を、恰も実在するかのように描出しています。ご指摘の創世記の多義的要素も、混乱の一因となります。玉石混淆を見極める膂力を持たなければ、真に多義図形的な知覚を得るに到りません。ぽこぺろぽも慈念さんの境地に到達したいものであります。

投稿日時 - 2009-06-01 00:31:55

ANo.45

(^O^)/はーい、[No.43この回答への補足]へいただいた補足へこちらからも補足要求をひとつ。


●絵画のイメージと、この題名の哲学的意味合いの、双方を論じる必要があるように思います。


必要があるようになぜ思われたのですか?

pokoperopoさんは哲学的には、この問いをどのようにお考えになるのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-26 22:31:19

補足

回答へのお礼欄をお読みになったうえで、関連した内容のご回答をいただければ、ありがたく思います。よろしくお願いします。

投稿日時 - 2009-05-27 02:08:18

お礼

補足要求をいただきありがとうございます。もちろん、絵を観賞するだけで十分であるとは思います。しかし、ゴーギャンにかぎらず、われわれ人類がしてきた永遠の問いが、このタイトルです。哲学は人間に関わる問題を扱います。これが哲学でなくて、何が哲学なのでしょうか?そういうわけで、絵は横に置いて思索する必要を感じます。
【A-1】われわれはちりから出た
【A-2】われわれは働く者である
【A-3】われわれはちりに返る
神は人の心に永遠の思いを与えられた。しかし、人は神が行われるみわざを、初めからおわりまで見極めることはできない。
以上の答えは「伝動者の書」第3章の抜粋であります。われわれは何もわからない。だから問い続けるのでしょう。われわれは皆、同じ属性を持ちますが、ひとりひとりに役割があり、それぞれの働きが生きる意味ではないでしょうか?分子レベルの小さな結合がわれわれで、役割を終えたわれわれは、また小さな分子へと帰っていくのだと考えます。いかがでしょうか?それではお聞かせ願いましょう。

投稿日時 - 2009-05-27 02:29:51

ANo.44

pokoperopo様、追伸させていただきますね。
まず、こちらのオファーについて。

>この質問は、ゴーギャンの作品がボストンに帰るまでは、締め切らない予定でおります。いつでもお好きな時に覗いてください。

上記のような心温まるご提案を頂戴致しまして本当に嬉しく思います。
これは、本心です。
ありがとうございます。

追伸の件ですが、わたくしは今、とあるギャラリーから書き込んでおります。
場末ではありますが、美術関連の末端の仕事に携わっております。
また、夫に揶揄されながらも拙い創作活動を趣味で続けている身です。
哲学カテを知る以前は、芸術はあくまでも表層的、直感的な感覚を第一として念頭においてきました。
つまり、絵画鑑賞においても「まずは出来るだけ心をまっさらにして作品と対峙する」ことを常に心がけてきたのです。

で、哲学カテにおいて同時進行と言う形でフーコのテクスト・著作にふれていくにつれ、「哲学的アプローチによる絵画論」というものにより一層魅かれていったのです。
そしてこちらの質問。
とてもわたくしにとって勉強にも大きな刺激にもなりました。
本当にありがたいことです。

但し、哲学的な素養と抽象的な思考方法に乏しいわたくしにとって、ちょっと疲労感をおぼえたのも事実でして(情けないですよね、笑)、少し頭をリセットしようと考えたのです。
また、読解力、記述力の拙さは問題ではなく、本質的にわたくしにとって必要かつ肝心なのは、物事を深く洞察する集中力、思考力必要なのだなあ、とあらためて思うに至りました。
これをご教授くださったのは、pokoperopo様、あなたなのです。

『知の欺瞞』を今読みはじめたところです。
実は自然科学系や数学系の話の方が純文学よりも好きです(笑)
この著書により、はたしてどの程度の衝撃波をくらうのか、いまからとても楽しみです。
再起不能になったりして?!

またこちらの質問にはお邪魔させていただくつもりでブックマークをさせていただきますので、どうか〆切らないで下さいませね。

どうぞよろしくお願い申し上げます♪

投稿日時 - 2009-05-26 18:44:00

補足

ゴーギャンの年表を見て、大事なことに気づきました。ゴーギャンが特に愛した、娘アリーヌの名は、彼が19歳の時に亡くなった、母アリーヌと同じです。その母、つまり彼の母方の祖母は、女性解放運動家のフローラ・トリスタンです。タヒチ時代には、『かぐわしき大地』のモデルにもした、少女テハアマナと同棲をしています。これらの女性との関係から、画面中央の人物以外が、すべて女であることや、「さまよえる女」の正体が、読み取れるかもしれませんね。いかがでしょうか?

投稿日時 - 2009-05-27 18:34:16

お礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。そのお考えにはゴーギャンも賛成することでしょう。なぜなら、「画面左端の家鴨が蜥蜴を捕えている図は、言葉の虚しさを表している」と彼自身が説明しているからです。哲学は言葉の壁を越えられません。ですから、ゴーギャンもキャンバスに自らの思いの丈をぶつけたのでしょうね。ご心配なく、皆さんからご回答をお寄せいただくうちに、私自身がこの質問を締め切りたくないと考えるようになったのです。じっくり鋭気を養われて、お手隙の時に本をお読みになってください。お気に召したら、読書カテや文学カテなどでお薦めください。ゴーギャンの東京展はまだまだ先です。是非ともお出かけになって、ご感想をお聞かせ願います。私もマシュマロさんを、お気に入りユーザーにブックマークしましたから。

投稿日時 - 2009-05-26 19:54:07

ANo.43

おはようございます、pokoperopoさん。

補足をいただいているようなので、次は少し謎を追ってみましょうか?

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
【Q-2】 われわれは何物か?
【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?


これをひと固まりの問いとして

No.42へ載せた【絵】を再度開き、しばしご覧ください。

さて、ご覧頂けましたでしょうか?

何かお気づきになったことはないですか?

そそ、不思議なことにこの絵の中に描かれているのは大半が人であったり、動物であったりと一言で括れば哺乳類。これに対比させるかのように植物が配置されてある。わたし、この点に注目してみました。哺乳類の起源を追えば何かみつからないかとね。ところが、系統図にはじまり分類項を追ってみていくと何が何やらどこまで派生していくねん!!と、真夜中に一人パソに向かい声をあげてしまいます。「どないやねん!!」絵の中の老人さながらもがき(苦悩)たくもなりますってば。と、いうことで今夜のところはひとまずここまで。



【哺乳類】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%BA%E4%B9%B3%E9%A1%9E

【Sirhファミリー】
http://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/06_jsps_info/g_060817/data/01_zuhyou/15-2_ishino.pdf

【変形菌の世界】
http://research.kahaku.go.jp/botany/henkeikin/index.html

投稿日時 - 2009-05-26 01:54:59

補足

絵画のイメージと、この題名の哲学的意味合いの、双方を論じる必要があるように思います。リトルキッスさんは哲学的には、この問いをどのようにお考えになるのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-26 19:26:25

お礼

リトルキッスさん、ご回答いただきありがとうございます。そうですね、人間を含めた哺乳類に着眼されたのは、大変に興味深いところです。哺乳類は、切に愛を求めていることは疑いようがありません。彼らを含めた共同体なる世界を描出しているようです。しかしですね、私も実物を見て知ったのですが、画面左端の家鴨は蜥蜴を捕えています。これに関してゴーギャンは「言葉の虚しさを表している」と説明しております。絵に見られる生物では、この2点だけが哺乳類ではありません。ちょっと意味深ですね。ゴーギャンはタヒチに渡るに当たって、その信仰も揺らいでいました。そういった宗教観も画面左情報の、女神「ヒナ」に表れています。さあ、どんどん多角的に切り込んで参りましょう。あらゆる観点からのご考察をお聞かせ願います。

投稿日時 - 2009-05-26 19:40:52

ANo.42

おはようございます、pokoperopoさん。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』


【タヒチとは】
http://www.adventure-is.co.jp/is-tahiti/histry.html
http://www.adventure-is.co.jp/is-tahiti/gaoguin.html
【フレンチポリネシアとは】
http://tahiti-life.com/polynesia.html
【タヒチの客家人】
http://junquonimura.jugem.jp/?eid=47
【絵】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Woher_kommen_wir_Wer_sind_wir_Wohin_gehen_wir.jpg

ゴーギャンがタヒチに渡ったのは、1891年4月。このときはまだタヒチはフランスの植民地。フランス国籍をもつゴーギャンだけれども、幼きころ親に連れられ祖国を離れ(亡命)南米ペルーに身を寄せた過去を持つ。フランスというひとつの国の中であっても政権がかわれば、前政権下で職に就いていた者は、その職を追われ居場所がなくなる。他国から侵略を受けるのではなく同国人による同国人へ向けての迫害。フランス国籍を有しながら新政権下では、部外者のような扱い。支配する者と支配される者の関係が倒置すかのように。フランス本土の中の支配図が変わる。そんな国の歴史を、一家の歩みを、ゴーギャンは、幼きころ母に聞かされ育ってきたことだろう。ゴーギャン43歳のとき、すでにフランスの植民地支配下におかれていたタヒチ。フランス本土では支配される側のゴーギャンであったとしても、フランス国籍を有する者はこの地(タヒチ)では、支配する側。


時折々に、支配する側~支配される側へと、その身が移る。そうかとおもえば、支配される側~支配する側へと、その身が移る。同じ一人のひとりの人でありながらこの身の定まらぬことへのもがき(苦悩)が、この絵の画面左隅の老人の表情として描かれたのではないだろうか。自己を投影させた姿。

投稿日時 - 2009-05-25 03:21:40

補足

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
【Q-2】 われわれは何物か?
【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?

 よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-25 23:34:32

お礼

リトルキッスさん、ご回答いただきありがとうございます。詳しいご解説と参照は役立ちます。先日、名古屋ボストン美術館で生を見てきました。おっしゃるとおり、画面左端の老女は、晩年のゴーギャンの苦悩する姿と重なります。タヒチの土人と生活しても、ゴーギャンが支配者側にいることは明白です。タヒチに惹かれながらも、完全には溶け込めない逡巡が見て取れます。流し目の妙齢の女たちは、そんな文明人の心を見透かすようでもあります。タヒチの風土はゴーギャンの世界観、人間観にどれほどの影響を与えたのでしょうか?あなたも、この絵をご覧になってお考えが変わるのでしょうか?全くもって興味津々です。

投稿日時 - 2009-05-26 00:20:05

ANo.41

いまシャットダウンしようとおもったら他の方のご回答を拝見して。

やはりね、無知の知をもってしてもやはりこれ以上はキビシーので、
最終回答とさせていただきます。
ちゃんと本は届いていますから、次回クロスオーバーした際に感想をちょこちょこっと書かせていただきますね。

pokoperopo様、色々ご教授下さって、本当にありがとうございました。^^
とっても勉強になりましたわ♪

投稿日時 - 2009-05-24 19:01:32

補足

本を読み終えられたら、ご感想をお聞かせ願います。お薦めの本が見つかりましたら、是非ともお教え願います。

投稿日時 - 2009-05-26 18:13:01

お礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。お礼を申し上げなければならないのは、私のほうです。おかげさまで、いろいろ勉強になりました。これだけは知っておいていただきたいと思います。私が哲学カテで投稿するのは、皆さんより知力に劣っているからです。私は高校すら卒業していません。ですから、系統立った学識はありませんが、そのことと学ぶことは関係がないと思います。学ばなければ知らないことも自覚できないのです。高学歴にも拘わらず、無知な者は巷に溢れ返っています。彼らが無知なのは、学びたいときに学ばなかったからです。もちろん、ご謙遜からのお申し出であることは理解しております。この質問は、ゴーギャンの作品がボストンに帰るまでは、締め切らない予定でおります。いつでもお好きな時に覗いてください。

投稿日時 - 2009-05-26 18:10:22

ANo.40

pokoperopo様、こんにちは。
いつもあたたかいお礼と補足をどうもありがとうございます。

いまですね、「投稿する」はずが「内容をクリア」を押してしまい、ニーチェも真っ青の虚無感に襲われております。
取り急ぎ、覚えている範囲で投稿させていただきます。

>フランスはなぜ反米気運が高いのでしょうか?

元々フランスはアメリカ独立戦争の頃から外政干渉、その後を傍観してきた経緯があります。
ですから、アメリカへの思いと言うのは一様ではないとわたくしは思います。
憧憬や羨望を抱く反面、一定の距離感を保つことは言わずもがなで、対等かそれ以上に外交政策から社会的気運までに反発しやすいのではないでしょうか。
隣国にイギリスもありますしね。
ですから日本における「反米気運」とはおよそ根本的に異なるものと考えているのです。

>>古今東西を問わず、人間の本質的な問いは同じではないかと考えます。ズバリ、その問いとは何でしょうか?
>たったひとつ、存在とは何かではありませんか?私は存在します。

これね、ハズレました!(笑)
思いっきり恥ずかしくって、死んでも言えないわ~

>西洋はキリスト信仰が当たり前なので、むしろ信仰の深度の個人差が大きく、信仰が深いと自認する本人が無自覚なまま、別の思想に流される危険性はあります。

ああ、なるほど~
これは大いに賛同いたします。
何故日本人は相対的に「信仰心があつくない」のでしょう。

>そもそも神の自己主張を受け入れて、振り回されることをよしとするのが、キリスト教ですから、自分が従わない相手には決してゆづらないのが西洋人です。東洋人は内面においてゆづることを求められませんから、誰にゆづっても支配されたことにはならないからゆづれるのです。命を永遠にゆづらないから輪廻転生を唱えるのです。

はい、おっしゃることそのままなのでしょう。
キリスト教は「神至上主義」でそもそもが一方向的なベクトルです。
だからでしょうか、「異端」排斥が厳しかったですよね。
これに対し、東洋思想である「仏教」の場合、「異説」「異なる宗派」に対する許容度が比較的大きかったように察せられ、その思考のベクトルも(輪廻転生など)過去現在未来と縦横無尽に走る余地があるように映ります。
キリスト教のそれとは全く異なる深遠さ・複雑さを感じる、と申しますか。

>《効率》のよい哲学とは間違いによるロスの少ない哲学です。哲学は遅れています。
>他の分野では、間違った科学が援用されたら批判の対象になりますが、哲学は衒学のために間違った援用をしても、論旨にシンパシィが抱ければ、赦されることが多いと思います。

この主張は、以前わたくしが考えていたことと似通っています。
素人ながら、いわゆる「科学」「数学」は一定の「解」への方向性の見極めが肝心で、それに至るプロセスをいかにシンプル・エレガントに明快にするかを念頭に解いてきました。
それは「数式」「記号」によって表現する合理性のなせる技でしょうか。
一方、「哲学・思想」は非合理性をはらむ「言語」によって表現するために過程も紆余曲折する傾向がみられ、明快な「解」に至るために精進する以上に、時として、「身内をかばい」、他の思想哲学を排除・排斥するための道具になり下がってしまうことすらあるのかもしれません。
このようなイメージによって、以前はどことなく「無駄」「ロス」と思える部分が大きかったのです。

ですが、東洋思想、仏教の思想をこちらのサイトで拝見するにつけ、たかがサイトながら、「無駄」「ロス」もどこかで繋がっているのかもしれないし、それ自体は「無駄」であっても、全体からすると決して無駄ではないのかな、と思うのです。
それに、そもそも「無駄」「ロス」なんていうものは、極めて個人的な主観の大きい概念で、相対的に異なりますよね。
一時期は「無駄」と思われたことも、長い人生の中で「あれは無駄じゃなかった」と思われることもあったりしますから。 
日本の世界に誇る「もったいない」も、「不要」と思う人にとっては「無駄」になり下がっても、「存在そのものがもったいない」と思う人、「将来必要になるかもしれないから取っておこう」と思う人には「もったいなく」映るかもしれませんしね。

>ニーチェなどはその毒性と、一理あるというだけで、未だに人気を誇っています。
>真に重要なのは、ニーチェが《役に立つ》かどうかです。

あえて「ニーチェの内容に触れずに」≪役立つ≫と想定するならば、≪ニーチェを超える≫あるいは≪アンチ・ニーチェ≫の思想の源泉に成り得る、ということではないでしょうか。

もう夕食作りに取り掛かりますので、乱文お許しを~♪

投稿日時 - 2009-05-24 18:26:25

補足

b氏は、この「無駄」「ロス」を、《迂回生産》と呼んでいました。マシュマロさんにとって『われわれはどこから来たのか われわれは何物か われわれはどこへ行くのか』は、よき迂回生産となりえたのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-26 18:31:14

お礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。フランスの反米は、日本のそれとは意味合いが違うようですね。フランスには、わが国こそ世界の中心であるとする《中華思想》があるようです。思想的な部分や外交大国としての面子から、譲れないプライドがあるのでしょう。現在は、超大国と呼べるのは、唯一アメリカです。これはフランス人も認めるべきでしょう。異端排斥に関するご指摘は鋭いと思います。一元論ならそれほど猛威を振るわなかったのでしょうが、善悪二元論は西洋社会の暗部といっても過言ではありません。哲学の《効率》ですが、まさにおっしゃるとおりです。われわれは「無駄」を通して学ぶのです。しかし、産業振興にとっては、「無駄」は悪です。《役に立たない》科学はお蔵入りさせるべきです。廃棄せよとまでは言っておりません。《役に立たない》科学はトンデモ理論ですが、哲学だけは科学ではないようです。もちろん、一般人が空想科学を楽しむのは勝手でありますし、その娯楽を奪ってはなりません。間違った哲学はこの程度の扱いに留めるべきです。本来、哲学とは立派な科学であるはずですから。

投稿日時 - 2009-05-26 18:52:28

ANo.39

>>>
私は、ゴーギャンはただの女たらしかもしれないと勘繰っています。母性への憧憬が強く見受けられることから、カトリックのマリヤ崇拝の残滓とも考えられないでしょうか?
<<<
この絵が、「ゴーギャンと女性との関係」へと視線を向けさせるとき、中央の人物の性別に関する多義図形的な見方が生まれ得ることを含め、多くの要素が多義図形的に組み入れられ、宗教的な背景に対する考えについても、多義図形的に配置されているように感じます。
さて、哲学的な問い、いや、哲学的だと感じさせうる問いとは、答えがあるが一つとは限らない問い、ないし、答えの出せない問いでは無いでしょうか?

皆が共有可能で、統一されうる回答が得られる問いは、当初哲学的だと思われていたとしても、哲学的ではなく、科学的な問いだと思います。

言い換えれば、たとえば「ある対象(絵・記号・出来事)が主体と巡り会うことで、多義図形的な側面・関係が立ち現れる」といった概念、もっと端的に記述するならば「AとBが出会うとき、両者に何らかの関係Xが生じる」は、一見哲学的ですが、対象(A)・主体(B)および関係(X)には、「様々なもの」を入れることが出来てしまいます。「様々なもの」は(一見)交換可能に思えるがゆえ、普遍的な概念としてトップダウン的に押しつけられることがあるかも知れません。

しかしながら、上記過程を経て得られた知識(概念)は、いつのまにか「主体」から切り離されてしまっています。まさに、書き手の元を離れた「概念を概念化した絵」のような存在です。西洋哲学はそのレベル(科学的なレベルに近いところ)を彷徨っている様に思えます。
言い換えれば、多くの人々に受け入れられる(であろう)抽象度の高い概念は、「対象・関係・主体」にて、抽象度の高い(他から切り離し可能に思われる)「関係」のみに着目して、様々な切り口を描出しているような「絵」だと思います。実のところ、主眼(着目点)を「主体」(たとえばゴーギャン自身)や「対象」(たとえば各宗教概念)に移しても同じことです。

ところが、哲学の本質的な所は、実のところ「主体」や「対象(客体)」ないし「関係」といった切り口にて様々に描出可能といった「絵画的・概念的」な所ではなく、それら切り口(断面、ないし絵画的・多義図形的概念)を貫き通す方向を有する「思い・想い」なのだと思っています。


さて、上記を踏まえ、もう一度(ゴーギャンの)三つの問いを見直してみます。
【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
【Q-2】 われわれは何者か?
【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
は、それぞれ、その疑問を考える「主体」を中心とした問いであり、その「主体」が属するであろう共同体概念(特定していないため、交換可能な・抽象度の高い概念集団)を想定しています。

で、Q-1,Q-2,Q-3での「われわれ」という抽象化された記号が同一内容を指し示すのか?ということも、問題になります。

同一内容を指し示すと考えるとき、「われわれ」の永続性が意識され、まさに輪廻性が強く意識されるでしょう。「われおもうゆえにわれあり」の「われ」の同一性と同等以上の主体概念の強さに通じるものがあると思います。

一方で、同一内容ではなく、何らかの変化を想定している、もしくは、切り離され得ない全体や、まったく混沌としたところから「生まれいずる」と考えるとき、輪廻性は失われ、主体を取り囲む外部(全体)の状態が強く意識されるでしょう。その「外部」は、たとえば共同体としての宗教概念に相当するかもしれません。

今まで述べてきた、ないし、今回述べているように「ある対象(絵・記号・出来事)が主体と巡り会うことで、多義図形的な側面・関係が立ち現れる」といった概念から、この絵とその主題とに巡り会うであろう様々な主体と、生じうるであろう様々な側面・関係について考え得るものを記述させていただきましたが、複数の可能性を捨てきれないという立場で見ようとする「思い・思い」、すなわち、貫き通す方向を有する「思い・想い」を抱かせ得る絵であり、問いであるゆえ、非常に哲学的な問いだと思っています。

(私自身の回答は既に述べていますので、割愛させていただいています)

投稿日時 - 2009-05-24 17:48:04

補足

持念さん、ご回答いただきありがとうございます。補足欄とお礼欄を間違えてしまいました。下の欄が補足質問です。お詫び申し上げます。そういわれてみれば、あまりに短絡していましたね。反省しております。これもあなたと私の力量差ということでお赦し願います。語句だけではなく、ご指摘のような構成が哲学的に感じられたからこそ、この質問を立てたわけですから、いささか矛盾しておりました。「われ」ではなく、「われわれ」というところに、大きな意味があると思います。絵のタイトルの問いは、西洋哲学におけるテーゼの範疇に入りますが、はたしてゴーギャンは、こうした科学的手法を用いて問うことを是としたのかは、疑問が残ります。私の解釈ですが、画面中央の人物はゴーギャン本人、他の登場人物がすべて女であることは、彼が女に囲まれて暮らすことを、ユートピア的だと捉えていたからだと思います。実物を前にして、その想いを強く感じました。これに関しては、いまだ考えは変わっていません。もちろん、絵のモチーフを抽象的に交換して、共同体を捉えたとするお考えには大いに賛同します。ここには、ゴーギャンの考えるゲマインシャフトが見てとれます。彼らはいかに交わってこの世界を彩るのでしょうか?

投稿日時 - 2009-05-26 17:48:31

お礼

通常であれば、数少ないモチーフの自然な構図においても、哲学的な問いは発せられると考えています。ゴーギャンが、多くのモチーフを登場させ、ご指摘の多義図形的な構図を用いたのはなぜでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-26 17:16:40

ANo.38

pokoperopo様、対話を続けてくださるのですね。
本当に心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

まずわたくしのスタンスをあらかじめ申し上げておきます。
「ゆづる」というキリスト教の精神と「(因果応報に絡む)輪廻転生」の仏教の概念。
そのどちらもわたくしにとっては「同価値」を持つのです。
「ナンセンス」な一面と、「非常に深遠で一生到達しえないような境地」と。

「ゆづる」は非常に高度な倫理性を備え、隣人愛という概念はわたくしにとっては大きな意味を持つ一方で、内なる損得勘定の観点からは現実的に極めてナンセンスに近い行動規範です。
我が子と夫、父母くらいにしか成しえないかもしれません。
「(因果応報をともなう)輪廻転生」は、「科学が好きな」わたくしにとってはいかにも荒唐無稽でナンセンスな概念でありながら、その反面、単なる個人的視点ではなく世界平和の希求或いは宇宙といったマクロ的視点で捉えた場合、いかなる思想哲学よりも抜きんでて理にかなっているようにも思えるのです。

ですから、お尋ねの「古今東西を問わず、人間の本質的な問いは同じではないかと考えます。ズバリ、その問いとは何でしょうか?」という問いに対して、無知の知以上にわたくしは「ズバリこれ!」と一つに定めることがスタンス上出来ないのです。
似たようなこととして、b様の質問「愚の骨頂」問題も同様でして、近代的理性をもってして「命題」になり得るかといえば「否」であれど、
決して仏教における「因果応報を伴う輪廻転生」は「因果応報の仏教から派生した仏教の恥部」を内在化しつつも、その近代的理性にもとづく論理性では決して推し量ることのできない壮大かつ深遠な哲学であるのだろうなあ、とわたくしは無知の知をもって考えているのです。

ああ、私事が甚だ長くなってしまいました。申し訳ありません。

>私は、信仰が崩れるとか、大切なものを壊されたと斥けているのではなく、それならばキリストを無視せよと言っているのです。確かに西洋社会においては不信仰よりも難しいですが、立脚点が神学にあるかぎり彼らに勝ち目はありません。
>今後の哲学の価値は、いかに《役に立つ》かに掛かっています。
>彼らの思潮は、フランス社会に大きな影を落としました。
>行き過ぎた個人主義による社会性不全と過大な人格尊重、安易な批判主義です。
>いかに魅力があっても《役に立たない》哲学は、意味をなさなくなります。迂遠は避けられるようになるでしょう。
>これからの哲学に求められるのは、他の科学同様に《効率》です。

う~ん、はたして本当にそうなのでしょうか。
フランス社会に大きな影を落としてしまいましたかね。
わたくしはたった数年ですが滞仏しておりました。
ある年など、友達の家にクリスマス休暇に泊りに行きました。
その際、「キリストを信じないなんてかわいそう。教会に一緒に連れていってあげるからね。」とその家族の皆に半強制的に連れていかれました(笑)。
もし、わたくしが頑なに「遠慮します。」と言ったとしたら。
わたくしが極東の国から来たエトランゼだからしょうがないよね、で済みますが、仮に同国民であったなら、この事態を何と思うでしょう。

それほどに、かの国ではキリスト教が国中の至る所に、そして人々の思想の髄にまで浸み渡っているのです。
その中で「棄教」もしくは「アンチ」を掲げるということの「異常さ」を思うにつけ、ゴーギャンのそれと日本人のそれとはちょっと異なるように個人的に思うのです。
殊に日本人は自己批判に比較的長けていますが、欧米人は相対的にそれほどでもありません。
車が衝突事故のような重大な非があればあるほど、自ら実直に謝ることは稀ですから。
「ゆづる」の精神をどのようにしてかの地の教会は教えさとしているのだろう、と思ってしまうのです。
(といってもかの地の教会側を非難しているわけではありません。)

>私が中学時代にキリストの門を叩いたのは、WASPの《効率》に憧れたからです。日本の教会の実情には幻滅しましたが、少なくともキリスト教は、彼らの哲学よりも役に立っています。
>いささか論説調になりましたが、いかがでしょうか?

はい、おっしゃることはごもっともでして、たとえばhospitalityにまつわる様々な社会的施設や隣人愛・人類愛に伴うボランティア活動の牽引など、「彼等の哲学よりも断然役立ってきた」と思います。
ですが、「その司牧的社会体制の功罪」一つとってみても現代における彼等の思想は決して「無駄」ではないはずです。
その功罪の大きな一つがpokoperopo様のおっしゃる≪効率≫至上主義であるのは言うまでもありません。

ps:信仰の非常にデリケートな部分を扱う内容なだけに、これ以上のさらなる対話はまずくはないでしょうか?
pokoperopo様への感謝の気持ちとオマージュをこめてお伺いしているのです。

投稿日時 - 2009-05-22 20:22:06

補足

私はフランスに滞在したことはおろか、その土を踏んだこともありません。ですから、その空気はまったく知らず、すべては伝聞によります。フランスはなぜ反米気運が高いのでしょうか?アメリカの反りに回っても得ることがないように思います。フランスは進取の気性を持ちますが、モダニズムの影響が人々を単純化しているように感じるのは、思い過ごしでしょうか?ゴーギャン存命の頃から、フランスはどう変貌したのでしょうか?フランス滞在のご経験のあるマシュマロさんですから、頼りにしております。

投稿日時 - 2009-05-23 00:23:04

お礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。はい、その問いは簡単なようで難しいですね。たったひとつ、存在とは何かではありませんか?私は存在します。今の私には、それで十分です。そして、あなたの存在を愛します。それ以上のことはわかりません。輪廻転生は否定しません。わからないからです。b氏もわからないことを哲学の主題に持ち出すからこそ、《役に立たない》と喝破されたのだと思います。私は信仰を失いましたから、信仰のデリケートさをご考慮されなくても一向にかまいません。信仰の残滓はありますが、洗い流す気もないので、お気になさらないでください。お気遣いありがとうございます。b氏のほうが、よほどご敬虔でいらっしゃるでしょう。西洋はキリスト信仰が当たり前なので、むしろ信仰の深度の個人差が大きく、信仰が深いと自認する本人が無自覚なまま、別の思想に流される危険性はあります。特に近代現代フランス哲学は世界的に評価されたので、これらの影響を受けた信者が、教会から強く批判されるとも思えません。つまり、信仰と近代哲学がきわめて錯綜しやすい環境にあるのではないかと推測します。そもそも神の自己主張を受け入れて、振り回されることをよしとするのが、キリスト教ですから、自分が従わない相手には決してゆづらないのが西洋人です。東洋人は内面においてゆづることを求められませんから、誰にゆづっても支配されたことにはならないからゆづれるのです。命を永遠にゆづらないから輪廻転生を唱えるのです。《効率》のよい哲学とは間違いによるロスの少ない哲学です。哲学は遅れています。他の分野では、間違った科学が援用されたら批判の対象になりますが、哲学は衒学のために間違った援用をしても、論旨にシンパシィが抱ければ、赦されることが多いと思います。ニーチェなどはその毒性と、一理あるというだけで、未だに人気を誇っています。真に重要なのは、ニーチェが《役に立つ》かどうかです。間違っていたらお教え願います。

投稿日時 - 2009-05-23 01:06:18

ANo.37

pokoperopo様、こんにちは。
無知の知の何たるかすら察せられない愚鈍なわたくしに、いつもあたたかいお礼を下さりまして本当にありがとうございます。

>バタイユのご質問を締め切られましたので、少しお話ししましょう。

はい、この早期締切についてなのですが。
一夜明けたら名指し糾弾されていた世知辛い経験があるために、早く〆たいと願う衝動に駆られてしまうのです。
ですが、おっしゃることもごもっともなので、次回からはもう少し粘ってみることに致します。

わたくしは不特定多数の集うサイト歴1年ちょっとなのですが、いまだにネット上ならではのコミュニケーションの楽しさ、難しさを両方感じます。
そしてpokoperopo様にはお礼以上の多くを頂戴しております。
本当にありがたいことだと思っております。

>私は彼らの哲学は、資料的な価値以上のものはないと断じますが、いかがでしょうか?

はい、バタイユの思想はご指摘の通り、生粋の「アンチ・キリスト」でありますから、それを信仰なさる方々におかれましては不快の極みではなかろうか、と拝察致しております。
恐らくそれは、フーコと同様、「自らの精神的土壌である西洋文明そのものに対する糾弾」そのものにすぎないと思われます。
その意味において、また、既存の社会体制の最も強固な根幹をなす思想に対するアンチ・テーゼは、必然的に生じるところのものでもあり、むしろ正常な精神活動の結果とさえ言えるのではないでしょうか。

また、フーコ以上のドラスティックさと精神的な闇の深さにより、バタイユは西洋人の「恥部」に触れ過ぎているようですね。
バタイユの「負の神学」は、フーコの監獄の囚人達に関する活動それ以上に「彼等一般人の≪sensus communis≫に対し思わず眉をひそめたくなるような酷いファクター」ばかりを率先して列挙しているために、格好のヴァルネラビリティと化しているのだと思うのです。

もちろんわたくしは個人的なキリスト教に対するオブジェクションを抱いているわけではなく、西洋文明や西洋思想の孕む二義性を直視し理解したいと願っているにすぎません。
それは欧米の友人達がスノッブさと憧憬を抱くZENや武士道とわたくしたちの想起するものとの乖離を認めるから、でしょうか。
また何だかんだいっても、そういう彼等の頭の中は、彼等の飾る世界地図同様、西洋思想至上主義であることは言うまでもありません。

それに今現在、さも当然の如く用いている西洋由来の哲学用語など、「テクスト上」では理解し得ても、はたして本当にその意味するところの本質にまで思考が到達しているのか。
そしてその用語を用いる上で、どれほどの洞察力と思慮深さをもって日本で語り合っているのか、理解しているのか。
そしてそれがわたくしたちにどのように影響を与えているのか等など。
考えていけば無知の極みのわたくしは迷宮に入り込んでしまいます。
西洋の本質を理解するほどに、東洋のそれをより深く理解しきたいと願うところにまで行きつけるのかどうか。ふう。

先の質問で「バタイユの主張するエロティシズムはわたくしたちの想起するエロティシズムと本質的に同じではないか。」としたものの。
やはり、これこそも似て非なるものなのかしらん、と思ってみたりもして。

はあ。
抽象的な思考能力に乏しいわたくしにはかな~りしんどいです。
何でもっとも不得意な分野カテにいるのでしょう?(笑)

そうそう、『巨匠とマルガリータ』が先に到着しました♪
大切にゆっくり堪能させていただきますね。

>『ドグラ・マグラ 上・下』 夢野久作 角川文庫)凄いですよ、これは。もし読後にキ〇ガイになられても、私を恨まないとお約束いただけなければ、読んではなりません。

うわ、そ、そんな。
pokoperopo様のご推薦って、もしかして濃くて熱いのかしら(笑)
こちらのサイトにおける武闘派活動もほどほどになさって下さいますようお願い申し上げます。

>『月と六ペンス』はゴーギャンのイメージが崩れてしまいますが、モームの人間観はなかなかに訴求的で、別の意味で楽しいですね。
>あの作品には、ゴーギャンが娘アリーヌを愛した面影は見受けられませんが。

はい、おっしゃる通りですので、わたくしは上野で再鑑賞後に堪能しようと思っております♪
「娘アリーヌと例の謎の女性」の究明にはなかなかに至りませんね。

投稿日時 - 2009-05-22 10:46:25

補足

古今東西を問わず、人間の本質的な問いは同じではないかと考えます。ズバリ、その問いとは何でしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-22 18:35:03

お礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。そうですか、名指し糾弾があったのですね。ショックですね。しかし、それが何か?私は自己紹介にもありますとおり、入会後2か月未満で、一番人気にまでなったのですよ。某巨大掲示板では、ここの晒しスレの副題に、危うく私の名前がつけられるところでした。しかも、別サイトでは「ぽこぺろぽ討伐作戦」まで練られたのです。しかし本名を持つ私個人には、何の影響も及ぼさずに、私の投稿に耳目が集まっていることは、私への称賛にほかなりません。実はあなたへの中傷を、別サイト(もちろん私が一番人気)で目にしたことがあります。しかし、それはあなたの知性への嫉妬です。彼らに取り上げられないようにするには、凡庸な投稿を繰り返す以外にありません。それに何の意味がありましょうか?ネットでは枢軸が圧倒的に有利なのです。発言し、取り上げられ、多く記録されてナンボです。これはネット利用者の誰にでもいえます。もちろん現在は、武闘もほどほどで鎮静化していますから、ご安心ください。さて、本題に戻りましょう。バタイユにせよ、フーコーにせよ、Common senseを疑ってかかる、否、潰しにかかる姿勢は評価します。私は、信仰が崩れるとか、大切なものを壊されたと斥けているのではなく、それならばキリストを無視せよと言っているのです。確かに西洋社会においては不信仰よりも難しいですが、立脚点が神学にあるかぎり彼らに勝ち目はありません。今後の哲学の価値は、いかに《役に立つ》かに掛かっています。彼らの思潮は、フランス社会に大きな影を落としました。行き過ぎた個人主義による社会性不全と過大な人格尊重、安易な批判主義です。いかに魅力があっても《役に立たない》哲学は、意味をなさなくなります。迂遠は避けられるようになるでしょう。これからの哲学に求められるのは、他の科学同様に《効率》です。私が中学時代にキリストの門を叩いたのは、WASPの《効率》に憧れたからです。日本の教会の実情には幻滅しましたが、少なくともキリスト教は、彼らの哲学よりも役に立っています。いささか論説調になりましたが、いかがでしょうか?

投稿日時 - 2009-05-22 19:15:47

ANo.36

pokoperopo様、いつもあたたかいお礼を下さるのですね。
本当にありがたいことです。心より感謝申し上げます。

>神「ヒナ」の横に立つ女は、ゴーギャンの愛娘アリーヌかもしれないとのことです。
>ゴーギャンはこの女のことだけは、なんら説明をしていません。いかがお考えですか?

なるほど、何も説明がないとすると…愛娘を想って描いた、と考えられなくもないですね。
衣装の色も独特ですし。

でもそれにしては、立ち位置が微妙ですよね。
「ヒナ」に背中を向けてますから、タヒチの土着信仰とは縁が薄いようにも見えて。
娘の冥福を祈るとしたら…ゴーギャン自身ははたしてどのような信仰心を抱いていたのでしょうか。う~ん。

>「伝道者の書」第3章全文
>「みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る」
>一神教にありがちな、二元的運命論ではなく、何人の心も揺さぶるベく、美しい表現でわれわれの生きる意味に答えています。

はい、そうですね。
何人の、のみならず、悠久の時を経ていまだにわたくしたちの心に語りかけてくるのは、真理にかぎりなく近いもののように感じます。
おっと、pokoperopo様にとっては真理そのものでしょうか。

わたくしは無知な者ゆえ、まだ何もわからないままなのです。
どうか失礼な物言いは叱咤をもって御容赦賜りますようお願い申し上げます。

>ブルガーコフ

こちらの方が先に到着しそうです。
今から楽しみです。本当にありがとうございます。
pokoperopo様はついに『月と六ペンス』を手になさっていらっしゃるのですね。
こちらの絵画鑑賞とこの命題に、あらたな解釈のインスピレイションが得られるかもしれませんね!

>不遇の天才にやけに同情的なのはどうしてでしょうか?

ふふ。あの人はその手の不遇の天才、夭折した天才に同情的なところが確かにあるようですね。
生前にたった一枚しか自作の絵画が売れなかったゴッホ。
それなのに、描かずにはいられない、生きてはいられなかった彼の孤独と狂気の淵と一途な信仰心、そして不器用さ。
小林ならずとも、わたくしたちの心の琴線に触れて魅了するものが、一様に彼等の作品にはあるのではないでしょうか。

お薦めの本…”Il Nome della Rosa"はもう既読でしょうか?

投稿日時 - 2009-05-21 00:09:31

補足

バタイユのご質問を締め切られましたので、少しお話ししましょう。なるほど、よく理解された上でバタイユに関心をお持ちなのですね。私もマシュマロさんより少し年下、あまり「悪」に染まる危険もないので、切り捨てずに読み直します。西洋文学を読んでいると、いかに当時の人々がキリスト教会に圧迫されていたかがわかりますね。スタンダールなどは、そのあたりの心情を巧みに描き出しています。しかし、アンチキリストはそれそのものが、負の神学なのです。ニーチェは「紙は死んだ」と喝破しましたが、死んだということは、「神はいた」ということです。これが神学でなくて何なのでしょう?そもそも神は死ぬ可能性を内包した存在なのでしょうか?かように半端ならば、無神論、不可知論を説くべきです。おかしいですね。というわけで、私は彼らの哲学は、資料的な価値以上のものはないと断じますが、いかがでしょうか?われわれは何者かを考えるには欠かせないと思います。ひとつお願いがあります。マシュマロさんご自身のためにも、哲学のご質問は早くに締め切られないほうがよろしいでしょう。できるかぎりお礼と補足質問を併用されて、自他共に考察の深化を図られると、より有意義なものとなるでしょうね。生意気ながら注文をつけてしまいました。今後もマシュマロさんのご興味に合ったお話を期待しております。もっとも教えていただくことばかりではございますが。

投稿日時 - 2009-05-21 17:31:20

お礼

ボンジョルノ、マシュマロさん。ご回答いただきありがとうございます。もちろん『薔薇の名前』は既読です。つくづく趣味が合いますね。うれしいです。また思い出されましたらお薦め願います。しかし、これほどまでに趣味が合うなら、もう一冊を薦めさせてください。(『ドグラ・マグラ 上・下』 夢野久作 角川文庫)凄いですよ、これは。もし読後にキ〇ガイになられても、私を恨まないとお約束いただけなければ、読んではなりません。話は変わりますが、マシュマロさんは「無知の知」をよくご存じでいらっしゃいます。私も気負わずにお話しいただけますので、大変ありがたいです。『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』は、自らの無知を認めない者には、思いを廻らせる資格すらないと考えます。そうそう、『月と六ペンス』はゴーギャンのイメージが崩れてしまいますが、モームの人間観はなかなかに訴求的で、別の意味で楽しいですね。あの作品には、ゴーギャンが娘アリーヌを愛した面影は見受けられませんが。

投稿日時 - 2009-05-21 17:54:24

ANo.35

pokoperopo様、こんばんは。
ご丁寧なお礼をどうもありがとうございます。

>『巨匠とマルガリータ』ミハイル・ブルガーコフ)が、戦後の世界三大文学だと思っております。

なるほど、面白そうですね。
早速、読んでみたいと思いました。ご推薦ありがとうございます!

>>【Q-3】はいかにもpokoperopo様らしいなあ、と拝察致しました。
>ぽこぺろぽらしいとのご指摘は、何を指してのことでしょうね。

だって、この質疑において誰よりもゴーギャンの宗教観に共感をおぼえ、かつ、『われわれは~』の命題並びに絵画に格別の想いを抱いていらっしゃるのですから、当然洞察も奥深く鋭くなるはず。
わたくしは、pokoperopo様の論説がすごく的を射ていると、心の底から感嘆しているのです。

ところで、
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを初めから終りまで見きわめることができない。」の引用テクストを拝見し、あらためて一神教とポリネシアの多神教とのはざまに揺れるゴーギャンの心境に想いを馳せてみました。
唯一絶対神を崇める姿勢と一線を画すということは、それ相応に大いなる価値観の変質をもたらしたと思われます。
この点につきましてどのようにご推察なられますでしょうか。
案外違和感無くスンナリ多神教になじめるものなのでしょうか。

また、ゴーギャンは日本の浮世絵に憧憬を抱いていたのはご承知かと思われます。
伝統的な西洋画には見られない鮮やかな色づかい、遠近法を用いない斬新な構図、明快な輪郭線等、至るところにその影響がみられます。
あの絵画は、恐らく、タヒチという土地をモデルにして投射した、彼の雑多な精神世界の風景そのものなのでしょう。
ご推察の如きゴーギャンの宗教観の推移とともに、「万物は流転する」といった感覚までも抱くというのは、ちょっと行き過ぎなのでしょうか。

>グラスの心象世界の映像化を試みて、陳腐化しないわけがありません。映画のことはお忘れになったほうがよろしい。
>ちなみに映画は、小説全3部のうちの第1部のみです。

了解しました!
何故か…一個小隊の中に組み込まれてしまった気分です。
で、上官が「任務遂行(読書感想)までは、何と書いたかはお話ししませんよ」とおっしゃっているかのようで(笑)

本日付の密林からの配送遅延報告は(知の)欺瞞ではなく怠慢そのものにほかなりませんよね、隊長?

投稿日時 - 2009-05-15 22:23:20

補足

NHK『迷宮美術館』はご覧になりましたでしょうか?名古屋ボストン美術館の「ゴーギャン展」にちなんで、タヒチ取材とゴーギャンの生涯、展示中の『我々はどこから来たのか 我々は何物か 我々はどこへ行くのか』の謎に迫っていました。また再放送があるかもしれませんし、『日曜美術館』で取り上げられるかもしれません。それによると、女神「ヒナ」の横に立つ女は、ゴーギャンの愛娘アリーヌかもしれないとのことです。ゴーギャンはこの女のことだけは、なんら説明をしていません。マシュマロさんは、いかがお考えですか?

投稿日時 - 2009-05-17 20:16:36

お礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。お褒めに預かり光栄に存じます。しかし私は、一月ほど前までは「ぽこぺろぽ中尉」を名乗る将校だったのですが、訳あって二度の降格があり、現在は「伍長」という一兵卒にすぎません。ですから、とても上官などとは呼ばれるに相応しい者ではございません。そのお気持ちだけありがたく頂戴いたします。ご指摘のとおり、ゴーギャンは浮世絵の影響を多分に受けて、平面的に描いているのに、影を都合よく描いて厚みを持たせようとしているあたりは独特ですね。ところで、重要な引用を忘れていました。「みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る」(「伝道者の書」 第3章20節)。この問いの答えみたいでしょう?ちりというのはゴミではなく、ミクロの宇宙を指してのことだと思われます。ぜひ一度、「伝道者の書」第3章全文をお読みください。一神教にありがちな、二元的運命論ではなく、何人の心も揺さぶるベく、美しい表現でわれわれの生きる意味に答えています。すみません、ブルガーコフは第二次大戦中に亡くなっていますね。その死の床で完成された作品ですが、遺族がソ連官憲の摘発を逃れるため何十年も隠し持っていたのと、当時としては驚嘆に値する斬新なプロットを持つため、戦後ということにしておいてください。配達遅延は業務怠慢ではなく、密林、あるいは神様の粋な計らいでしょう。それだけ、期待感と関心が高まります。私はこの質問を締め切るときに、件のカードになんと綴ったかを明かすつもりです。そのほうが皆さんも楽しいでしょうからね。あ、『ゴッホの手紙』を読了しました。さすがは小林秀雄ですが、小林は『モオツァルト』での中でも同様に見受けられるように、不遇の天才にやけに同情的なのはどうしてでしょうか?あ、もうひとつ、ぽこぺろぽ向けの一冊がありましたら、是非ともお薦め願います。ちなみに現在は『月と六ペンス』を読み始めたところです。

投稿日時 - 2009-05-17 21:02:10

ANo.34

何が一番良いのかという事は、良くは分かりませんが、「禅への道」というのはどうでしょうか?その中で宗教とは何か?という項目があります。そこの処を徹底すればそれだけで良いように思います。

仏性は体に在ると言えます、或いは自我意識がない時に現れています。その切り変わりが余りにも巧妙に出来ているために、気が付き難くなっています、心が生じる時、自我意識が無意識から切り替わる瞬間、指の先にも、足の先にもそれは在ります。「父母未生以前本来の面目」が分かった時にすべての答えが分かります。この問題は「お前が生れぬ先の事を言ってみよ、その時のお前は何だ!」という設問と考えてください。

投稿日時 - 2009-05-14 20:33:20

お礼

つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。自我意識が仏性の気づきを妨げていることは理解できます。「父母来生以前本来の面目」を知ることが肝心なのですね。『禅への道』を是非とも読みます。私が他のご回答者に引用いたしました、(『旧約聖書』 伝道者の書 第3章)をお読みください。宗教は異なれど、この問い掛けヘの美しい回答例だと思います。

投稿日時 - 2009-05-14 21:29:38

ANo.33

再びの回答となります。

われわれは何のために生まれて来たのでしょうか?神(仏)の思し召しでしょうか?それとも自らの意志でしょうか?よろしければお答え願います。

この問いは、本当は自分が自分自身に問いかけているものと言えます。子供の笑顔は世界共通です、金があってもなくとも子供には笑顔があります。子供は天国に住んでいます、それは天国を求めていないところにあります。明日がどうなるのか?不況で職がないと言っては嘆く事はありません。

人生は何であるか?自分は何のために生きているのか?自分は何者?という事を問いかけたりはしません。ですが幼子は十分幸せに満ちています。あべこべに幼子は人生を分かっています、自分は何者かを分かっています、そうして何のために生きているのかという事を知っています。

それらの問いはすべてがつながっています、一つが分かれば全ての謎が解けます。それが「悟り」です。自分自身がその答えを知っています。悟りとは悩んでいる自我意識が、悩ませている自分自身と出会うという事です。悩み、苦しみの元が自分自身という事が分かります。それ以後悩み、苦しみはなくなります。

簡単に説明するなら、脳の機能の問題です。子供の脳は左右が未分化です、その事で心は一つしかありません。思春期頃に脳の機能は分化が完成に近くなります。その機能の違いが分からないことが「無明」という事になります。左脳に一つの人格が在る。右脳に一つの人格が在る。という事です、その二つの人格が「仲たがいをしている」姿が人生苦と言えます。すなわち心の分裂です。地獄です、精神疾患です、神経症です、自律神経失調症です、すべてを総称して生きて行く障害と言えます。

この解決が「聖書」や仏教の根本をなしています。そこに至ることを「道に至る」と言います。その道に至ることは簡単と言えます。それは分別を捨てるだけで良いからです。好きと嫌いで世の中を見ています、その見方を変えるだけで良いからです。ですが至ってからは簡単と言えますが、その道は誠に困難を極めます。手の着けようがないからです。

そのためのテキストが禅問答です。禅問答は左脳の分別では手が付けられません、なぜならば左脳の機能では不可能と言えるからです。左脳の能力では不可能、と分かることが悟りです。「大死一番」という事になります。一回自我意識が降参する必要があります、その時に右脳に在る神、或いは仏性が出てきてすべての問題に答えを出してくれます。

悩みや、苦しみとは、右脳に振り向けてやる問題を、左脳に振り向けたことになります。矛盾した問題、或いは割り切れない問題を割り切れることしかできない脳に答えを求めている事になります。心は堂々巡りをしています、悪循環に入ります。答えなどは出ません。何故ならば答える機能がないからです、言い方を変えたならば、ソフトの入っていないコンピューターに、答えを要求している事になるからです。

その解消が禅問答の中にあります。その答えは「おまえは誰か、と聞く必要がなかった。」という事になります、誰でも毎日何百回も会っているからです。ですが会ってみないと分かりません。自分自身で経験しないと、わからないことと言えます。もし興味があるようでしたら鈴木大拙博士の著書を読んでみてください。博士は体験から禅を説明しています。分からない事を、親切に説明してくれています。

投稿日時 - 2009-05-14 07:45:29

補足

過去の拙問においても、鈴木大拙博士の著書をお薦めいただきました。しかし多くの著書があり、どれが入門者向けの著書かわかりません。つまり問うさんのお薦めは、どの著書でしょうか?よろしければお教え願います。

投稿日時 - 2009-05-14 09:50:01

お礼

つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。そうですね、イエスも「子供のようであれ」と言っていますね。仏教にもキリスト教にも共通した教えです。脳に答えを求めると、悪循環に陥るのですね。迷路に迷い込まないように、あるがままに身を任せることが肝心なのでしょうか?

投稿日時 - 2009-05-14 10:00:45

ANo.32

pokoperopo様、御心のこもったお礼をどうもありがとうございました。

ゴーギャン展に行かれたのですね!
やはりさすがのド迫力だったのでしょうか。
わたくしは夫とボストンで拝見したのですが、当時はいまほどに深く哲学的思索もせず、ただの美的絵画鑑賞に留めたのみでした。
ですから、このたびのゴーギャン展が当時に想いを馳せて二重の意味で楽しみですし、新たな発見があることを期待しているのです。

>ひそひそと打ち明け話をする二人連れの女は、ミサに出掛ける最中に見えてなりませんでした。
>ゴーギャン自身のキリスト信仰を時系列で描いたのかもしれません。

ああ、なるほど。言われてみればそう思えてきます。さすが!

>不思議なのは画面中央左の、右を向いて歩く女です。さまよっているかにも見え、ゴーギャン自身のキリスト信仰の揺らぎを表しているのではないでしょうか?
>ゴーギャンはタヒチの風景や人々の描写を通して、自身の宗教観の移り変わりも示したのだと思います。

なるほど、彼女は「さまよい人」のように思えますね。
身に着けている服の色も独特ですし、タヒチの土着神に背を向けているポーズは、キリスト教信仰とのはざまにいるのかも。
諦観ですか。おっしゃる通りですね。
ゴーギャンは…最期の瞬間には、いかなる信仰に辿り着いたのでしょうか。

>すでにお読みかもしれませんが『百年の孤独』がお好きなら、是非ともお読みいただきたい作品です。
>全編が人間のおどろおどろしさに満ちています。

わたくしのほうこそ、素晴らしい引用をご紹介くださいまして、心底嬉しく思います。ありがとうございます!
【Q-1】は『知の欺瞞』ですか。なるほど~。
あまりに魅力的な一文でしたので、すでに密林にて注文済みです。
明日あさってに到着予定ですので、今から読むのが楽しみです。
ありがとうございます。
おっしゃるところの「つまり科学的には我々の起源は解明されておらず、われわれはその思惟によってしか、その答えを導き出せません。また異なる見解も否定することもままならないのです。」は【Q-3】にも同様の余地があるのかもしれません。 
奥が深いと思いました。

【Q-3】はいかにもpokoperopo様らしいなあ、と拝察致しました。
>「ゴーギャンも太宰もタナトスへの憧憬が見受けられます。私は死後は天国や地獄へ行くのではなく、あの世という並行世界に行くのではないかと考えています。」
なるほど、タナトスへの憧憬ですね。確かにそうかもしれません。
あの世という並行世界をpokoperopo様はお考えになっていらっしゃるのですね。
一人一人にとって、思いのままの死生観があって至極当然ですものね。
ゴーギャンにとってはいかなるものだったのでしょうね。

【Q-2】
「母なる大地の代わりに、祖母なる大地が、雨を受けて感応して稔りをもたらし、死せる人間の身体を受け入れる━という女性の神話的イメージは、ここでスカートのなかの宇宙に凝縮されている。 ここでは、太鼓は、男の原理の側にありながら、へだてられた時間、男と女の差異を解消する媒介の役割を果たしている。(281頁)」
「…ぼくの知っているところでは、レオがまだ神学校にいるころ、ある晴れた日に、世界、秘蹟、告解、生と死というものがレオからすっかりずれてしまい、そのため、以降、レオの世界像はなるほど狂ってしまったが、非の打ちどころなく光り輝いているということだった。(284頁)」

わたくしは上述の『文化の詩学』(山口昌男 岩波書店)「「スカートの中の宇宙」を読んで映画のみ拝見しているにすぎません。
ですが、何とも言えず、大変に印象に残った映画の一つでした。
そして「原作と映画の間に引き裂かれる観客」と記されているほどに、差異が存在するようです。映画もご覧になられたのでしょうか。
pokoperopo様のご推薦もありましたので、この機会にぜひ小説の世界も堪能したいと思っております。

で、肝心のpokoperopo様の『われわれは~』は、いったい何とお書きになったのでしょうか??

投稿日時 - 2009-05-14 00:04:26

補足

『「知」の欺瞞』をお求めになったのですね。かなり衝撃的な論文です。私は、『百年の孤独』、『ブリキの太鼓』、それから(『巨匠とマルガリータ』ミハイル・ブルガーコフ)が、戦後の世界三大文学だと思っております。このうちの一冊でもお好みなら、すべてをお気に召される可能性も高いと思います。是非ともお読みいただき、ご感想をお聞かせ願います。私は現在、ご引用いただいた『ゴッホの手紙』を読んでおります。他にお薦めの本がありましたら、紹介していただけませんでしょうか?私はご回答が寄せられなくなると、すぐに質問を締め切ってしまいますが、本質問はたとえお一人でも、ご回答をお寄せいただける余地があるかぎりは、締め切らないつもりでおります。どうか長いおつきあいをよろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2009-05-14 10:34:05

お礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。以前のご回答にも引用していただいたとおり、タヒチの神話には惹きつけられる何かがあります。ネシアの神々は上から見下ろすのではなく、われわれを映し出しているように感じます。『ブリキの太鼓』の映画制作者の蛮勇は称賛に値します。この物語の舞台の映像化は用意ですが、グラスの心象世界の映像化を試みて、陳腐化しないわけがありません。映画のことはお忘れになったほうがよろしい。ちなみに映画は、小説全3部のうちの第1部のみです。
それから先に引用した聖句の口語訳を添えます。

「天の下では、何事も定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを初めから終りまで見きわめることができない。
私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。」(「伝道者の書」第3章1.2.8.11.22節 『聖書 新改訳』 日本聖書刊行会)

 この聖句の前には、私の記した言辞などは戯れ言です。ドウドウ、落ち着きなさいな。何と書いたかは、あとでお話ししますから。それよりぽこぺろぽらしいとのご指摘は、何を指してのことでしょうね。

投稿日時 - 2009-05-14 11:22:03

ANo.31

>>>
ゴーギャンは複数の宗教概念を、止揚し昇華を為し得たとお考えになりますか?よろしければお答え願います。
<<<
ですが、残された絵に巡り会う「誰か」が、そのように捉える(そのような概念が立ち現れる)ことができたなら、「そうである」といえるでしょう。
彼が「止揚し昇華を為し得た」かどうかは問題にはならないと思います。ただし、彼が「止揚を想い、昇華を為そうと想い」といった方向性にて絵を描かれたのであれば、そのように見てしまう人々が多いかも知れないですよね。

>>>
私は、ゴーギャンはただの女たらしかもしれないと勘繰っています。母性への憧憬が強く見受けられることから、カトリックのマリヤ崇拝の残滓とも考えられないでしょうか?
<<<
そのように感じられたのであれば、その感覚も「あり」だと思います。

投稿日時 - 2009-05-13 23:01:49

お礼

ご回答いただきありがとうございます。ゴーギャンはこの作品に大変な自信を持っていましたが、のちに自殺を企てたことからも、信仰心を昇華させたとは言い難いでしょうね。彼は母性を強く追い求めたのだと考えます。彼は女性ばかりの世界の中心に立ち、収穫による献身を望んでいたのかもしれません。

投稿日時 - 2009-05-14 09:28:32

ANo.30

われわれから仏性を取り除いたら、どうなってしまうのでしょうか?よろしければお答え願います。

という事なので、私見を述べてみます。

仏性というものを説明するとしたら、それは「命の働き」という事になるのでしょうか?ツバメが学校に行かなくても行く先を知っている事に相当します。或いは、クモだっても、何も習わなくても実に立派なクモの巣を張っています。

人間はそれ以上の脳を与えられています。人間が学びながら成長してゆきますが、それは左脳にある自我意識が分別を学んでいるという事になります。学問とはものを割り切ってゆく事の別称と言えます。科学といっても同じことです。先にも書きましたが、分別が人間の歴史を作ってきたとも言えます。人間の合理性が人間社会の発展を作っています。

所がその割り切った考え方、合理性だけでは人間は納得できないことに気が付いています。この事は心に在る漠然とした不安或いは、自分の心が自由に働かないことに気がつきます。それが心の分裂です。

人間の心は自由を求めています。有限の自分の体、或いは命の叫び、或いは、永遠への憧れです。有限の身が、永遠の命を渇望します。このジレンマが「病」の元を作っています。このジレンマを心に感じたときに心は病んでしまいます。人間が強く願う時にある人は深淵の暗闇へと落ちて行くかも知れません。

所がその深淵から再び蘇ってくるかも知れません。今度は絶対の安心と自由を手にして。心の分裂が病の元をなしていて、心の分裂が、その無明を照らすかも知れません。自分の心を圧迫していたものは自分自身と分かるからです。

自我意識と、自分の命の働きが一緒になって働くときに「天国」にいる事になります、つまり幼子と同じになります。

自我意識と自分の命の働きが二つになった時に「地獄」に落ちます。心の分裂を意味しています。その最たるものが精神疾患です。或いは神経症です、或いは自律神経失調症となります。

幼子の心で、或いは大人の嬰児が出来上がれば無病息災と言えます。すなわち「不安心即安心」という事になります。涅槃という事になります。これが仏という事になります。

仏性がなくなればどうなるのかという事ですが、是は「命の働き」という事なので、心臓の働きも止まる、呼吸も止まる、という事になると思います。その時に自我意識が共に在れば、「神の思し召しのままに」という事で幸せなことになります。今ここが天国という証です。

共に在るという事は、絶対肯定という境涯の事です。悟りを得るという事は自分自身の「絶対肯定」している者と、仲直りをするという意味になります。自分自身の心半分が神であり、仏であり、宗教であることが分かることになります。右脳にはそういう訳のわからないものが存在していると思います。気のせいかも知れません?良く分かりませんが?

投稿日時 - 2009-05-12 06:21:47

補足

われわれは何のために生まれて来たのでしょうか?神(仏)の思し召しでしょうか?それとも自らの意志でしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-12 23:12:20

お礼

つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。仏性とは生命の働きそのものなのですね。以前、私はある人から「私たちはこの世に何をしにきたのか?」と尋ねられ、「肉体は魂の乗り物、魂は経験を欲している、魂を満たすために、肉体は素晴らしい経験へと案内しなければならない」と答えたことがあります。なぜか憑かれたように、そう言ってしまった記憶があります。今でも会えばその話が出ますが、自分でもよくわかりません。

投稿日時 - 2009-05-12 23:21:00

ANo.29

中央の果実を摘むもののみが男だったとするならば、キリスト教での男女の立場を入れ替えた構成を「あえて」描こうとしたのかもしれないですよね。
実物を見ていないので何ともいえないですが、ネット上で閲覧可能な範囲では、女性でないとすれば、中性的な存在に感じます。
少なくともゴーギャンは、2種類(もしくはそれ以上)の宗教概念を、(微妙に異なる描写をあえてとることで)幻想的に記述し、組み合わせています。それらは、見る者に何らかの違和感を抱かせながらも、女性という概念(および基調となる「青」)から生み出されうるオブラード的な「安心感」で包み込むことで、複数宗教の多義図形的な描出を行ったのかもしれません。
いかなる宗教を信じる人であっても、その絵の中に自身の信仰する宗教を見いだし得るとすれば、そういった宗教的な対立を越えたところにて「われわれ」という概念を提示し、3つの疑問文を添えたのかもしれません。

投稿日時 - 2009-05-12 03:53:31

補足

ゴーギャンは複数の宗教概念を、止揚し昇華を為し得たとお考えになりますか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-12 22:54:00

お礼

ご回答いただきありがとうございます。画面中央の人物は、おっしゃるとおり中性的に見えますね。しかし私は、描かれている成人の中で唯一人、乳房の膨らみのないことから男であると考えます。ゴーギャン自身を投影したのかもしれません。キリスト教の男尊女卑に対するアンチテーゼとは興味深いご考察ですね。私は、ゴーギャンはただの女たらしかもしれないと勘繰っています。母性への憧憬が強く見受けられることから、カトリックのマリヤ崇拝の残滓とも考えられないでしょうか?

投稿日時 - 2009-05-12 23:05:57

ANo.28

pokoperopo様、こんにちは。

わたくしがトンチンカンな回答を寄せてしまってお礼がストップしてしまったのならお詫び致します。ごめんなさい。

で、「ゴーギャンがタヒチに移った背景には、キリスト教への懐疑と、広義のシャーマニズムへの憧憬があるのかもしれません。また包括的な世界観も見受けられます。」のお礼を再び拝見させていただいたうえで、
おっしゃるとおり、すでに当時はキリスト教義一辺倒ではなくなっていた、加えてタヒチの土着信仰もしくはポリネシアの神話が大い影響していたであろう、とわたくしも強く思いました。

ただ、はたしてキリスト教に対しどの程度懐疑的だったかにつきましては、絵画の縁最上部より果実をもぎ取ろうとするイヴと食べる少女、四次元空間さながらの不思議な暗闇から出づる(楽園追放を想起させる)女性二人が絵画の最中央に描かれていることから、キリスト教の教義を完全に捨て去るところまではおよそいかなかったのではないか、と考えます。
また、命題『われわれは~』とシンメトリに描かれた絵画最上部両端の箇所とイヴの身体がひときわ鮮やかに黄色くシンクロしているかのように映ります。

さらに、絵画の右半分と左半分とに分けて、総じて各絵画のモチーフがシンメトリに描かれています。
たとえば右側に横たわる赤ん坊と視線を投げかける女性たち、活動的な犬、楽園の出口を想起させる不思議な洞穴と茂み。
かたや左側には孤独・病・死を想起させる女性とかたわらに座る視線を投げかける女性、おとなしい犬、ポリネシアの神、山、海、大地にわき出でる真水の泉等など、おおまかに配置されて描かれています。
(あくまで素人の私見ですので、細かい矛盾につきご指摘をいただけたらありがたいです。)

最後に、ポリネシアの神話についても少しふれて〆させていただきます。
あまり聞きなれない神話ですし、この絵画と因果関係があるかは定かではありません。
ですがあくまでご参考までにということで、この絵画に描かれた背景に何らかの新たな「象徴」を見出していただけたら幸いです。

「この世の初めに、タガロア神がただ一人、空間のなかにあった。空もなく、国土もなかった。彼がただ一人空間のなかを行ったり来たりしていた。
ところが彼が立ったところに、岩が一つ生えた。タガロアは、岩に「破裂しろ」と命じた。
岩が割れて神々が生まれ出た。
タガロアが右手で岩を打つと、岩の右側が割れて、大地と海が生まれ出た。
タガロアが右にまわると真水がほとばしり出た。
次に彼が岩に語りかけると、天が生まれた。
タガロアはまた岩に話しかけて、少年少女や、精神、情緒、意思、思考などを生み出した。
こうしてタガロア神の、岩からの創造行為は終わったが、これら生まれ出たものは、海上を漂い、固着したものは何もなかった。
次にタガロアは岩に命じて、精神、情緒、意思、思考などを人間の中に入れさせた。
またタガロア神は天地を分離させ、島々をも造った。
・・・月神はシナ(ヒナ)といい、神々の衣服を作るため、樹皮布をたたいていたが、その霊は昇天して月となった。
月中の紬ぎ女あるいは織女に関する神話は東南アジアにもある。」

『世界神話辞典』角川選書432頁

投稿日時 - 2009-05-06 02:38:03

補足

「ゴーギャン展」を観に行きました。件の絵の前にずっと立ち尽くしてしまいました。マシュマロさんは「ゴーギャン展」には出向かれた、もしくはそのご予定がおありでしょうか?あるいは本場ボストン美術館でご覧になったのでしょうか?

投稿日時 - 2009-05-11 13:39:48

お礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。実は二度目の蟄居を申し付けられており、ログインが許可されませんでした。ご心配をおかけして申し訳ありません。私の心にはあなた専用のお部屋が用意してありますよ。「ゴーギャン展」で本物のド迫力を堪能しました。ゴーギャン自身の絵の説明もありましたので、ここでは私見を述べます。画面右側に描かれた、ひそひそと打ち明け話をする二人連れの女は、ミサに出掛ける最中に見えてなりませんでした。ゴーギャン自身のキリスト信仰を時系列で描いたのかもしれません。不思議なのは画面中央左の、右を向いて歩く女です。さまよっているかにも見え、ゴーギャン自身のキリスト信仰の揺らぎを表しているのではないでしょうか?ゴーギャンはタヒチの風景や人々の描写を通して、自身の宗教観の移り変わりも示したのだと思います。そこにはキリスト信仰への未練も感じました。私もキリスト信仰を捨てましたので、胸にズシンと堪えました。おっしゃるとおり、キリスト信仰を完全には断ち切れない迷いや、諦観からくるタヒチ土着信仰への憧憬の間にいたようです。名古屋ボストン美術館には、この拙問と同様に『われわれはどこから来たのか われわれは何物か われわれはどこへ行くのか』を、観覧者が項目別にそれぞれの考える答えを、カードに書き記すコーナーが設けられていました。私が何と書いたかは、お返事をいただくうちにお教えしましょう。

投稿日時 - 2009-05-11 14:10:05

ANo.27

#7です。
補足要求いただいてたんですね、済みません。
人格の階層、という言葉は適当かどうか分からないです。
ただ、問1,2,3は、それぞれ、過去、現在、未来、の概念について、と捉えます。
生まれる前、と死んだ後、と取るよりは、過去と未来がなぜあるのか?という意味かなーと思ったので。

この問は、「今を生きる」と言うことには反してます。偉そうなこと言ってますが。
過去現在未来ーー時制が頭に浮かぶのは、自己の分裂が原因です。
なんでやねん?というのは、ちょっと長いので省略です。
生きることに対する集中が、嫌なことがいろいろあって、だんだん落ちてきたから、というような説明ではどうですか?
集中の度合いが下がると、分かれ方は個性や直観により様々ですが、人格が分かれるのは同じと思います。

人格の分裂を、外から見ると、単純な構図では、上と下に分かれます。一番よくあるのは意識と無意識ですが。
心理学的なこの図式は、単純すぎますが。

時間を感じるのは、この世の特性ー時間、空間、物質の性質を基礎、前提条件として、成立する、後天的な人格があるため、と思ってます。(つまりそれらを感知する5感ー脳神経系の把握機能の性質かな?~仏教の唯識を参考に)

不安が、そういう本質と切り離された人格を作り上げた、とおおざっぱに思います。
で、今度は、その人格ーしゃばの人格とでも、この世の人格とでも呼んでるんですがーー、その人格が、例えば親や子供や、男性、女性、先生 生徒 会社員など、様々な人格(ペルソナ、単に役割、仮面、などと表現されます)、を作ります。
これらの多様な人格には、序列があるのはわかってもらえますか?

すごく厳密なところは僕も考え中で、いわゆる仏教的な無からの、日常扱い使用する人格がどうできあがるのか?というシステムのことですが。

階層、と書きましたが、下から上でなくても、上から下でも、右から左でもいいんですが、とにかく並んでるので、そんな言葉を当ててます。
単純な3段重ねのホットケーキ、みたいな単純なのなら楽なんですけど。


物理学で規定される様なこの世の性質に対応した基礎的な人格が、階層構造に分裂して一人歩きしてる、それ故時間空間を感じると言うことで。
昔、ロンドンの霧は、詩人がそれを詩に読むまでは存在しなかった、と言います。
あるいは、アメリカ人は、今でも肩こりを知りません。それに対応する単語がないからだそうです。
認識は、そんな性質があります。それは時間の把握にも当てはまります。
集中の深さレベルが変化するとき、人間には自覚が発生しますが、集中のレベルが「下がる」時に起こる自覚の例として、上の例えを書きました。
逆に我に返る、あるいは、アイデンティティーの自覚などは、集中の度合いが上がるときに発生します。(と思います、多分・・)
済みません、話長いですね、きりがないし終わります。

投稿日時 - 2009-05-05 03:57:59

補足

ゴーギャンは最終的に、どの人格の階層に到達したと思われますか?また羊さんご自身は、どの人格の階層に到達しておられるのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-11 14:26:11

お礼

羊さん、ご回答いただきありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。「ゴーギャン展」に出掛けてまいりました。この絵にはたくさんの人々が描かれ、それぞれにはゴーギャンのアイデンティティが投影されているように思いました。人格の階層でさまよっているとのご指摘には納得が行きました。私も一段上の階層へと昇華したいものです。

投稿日時 - 2009-05-11 14:32:10

ANo.26

つまり問うさんの禅問答に期待しましょう。と言う事なので、答えてみます。只期待には添えるかどうか分かりませんが?

I-われわれはどこから来たのか
是は人間の意識すると言う処からきた問と言えます、人間には認識し難いですが、毎日何百回と「意識」と「無意識」に入れ替わって生活が成り立っています。仏性は無意識の世界を司っています、或いは人間の生命の実権を握っています、体の事も一切実権を握っています。心臓の高鳴りも、脈拍数の計算も全てやってくれています。実に捕捉が出来難くなっています。何故ならば、意識がなくなるのと入れ替わって出てくるからです。

従ってもし貴方が悟りを開く(仏性と出会う、或いは、神と出会う)と言う機会が有るとするならば、それは雷が鳴る時間の1/100秒よりも短いかも知れません。それは二つの心がどちらになるのかの一刹那の事と言えるからです。自我意識と仏性が二つに分かれる時の一刹那と言う事です。心は絶えず入れ替わって人間の生活が成り立っています。

貴方が急ブレーキを踏むとしたならば、それは貴方の自我意識の命令を受けないで、仏性の命令で足がフートブレーキを踏んだ事です。「思わずに」身体が、心が突き動かされる時が有ります。それは仏性がそうしています。その時にははっきりと分かります。自分は何処から来たのか、我々は何者か、そうして我々はどこに行くのか?その答えは、違って見えますが、実は繋がっています。ひとつが分かればみんな分かります。

そうして極楽や天国が何処に在るのかと言う問いの答えも見つかります。その答えは「今、此処」がそのまま天国と言う事が分かります。人生に苦悩が付きものと考えていました。処が、その苦悩のままに救われていた事が分かります。人間には地獄と言うものが無かった事に気が付きます。悩みや、地獄は自分で作り出していた妄想だったと気が付きます。

元々人間には苦悩などなかったと言う事になります。只、分別の世界が勝手に作り出した幻想にしか過ぎなかったと判ります。それが分からないのは自分が自分を知らないだけと言えます。自分自身が分からないと言う事が、「救われていない」証拠と言えます。それが「無明」と言う事になります。本当に判り難い事です。それを説明しだしたら、聖書が出来上がりました。或いは仏教の経典が出来たと言う事になります。

投稿日時 - 2009-05-03 16:18:25

補足

われわれから仏性を取り除いたら、どうなってしまうのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-11 17:01:07

お礼

つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。人間は刹那に生きるといいます。その瞬間ごとに生死を繰り返すそうですね。時はどこから始まり、どこで終わるのでしょうか?それを見極めることが『われわれはどこから来たのか われわれは何物か われわれはどこへ行くのか』を知る鍵になるかもしれません。もしかしたら、今この時しか存在しないかもしれませんね。われわれは、「われわれ」でしかないのでしょうか?

投稿日時 - 2009-05-11 17:19:20

ANo.25

たどり着けない境地(?)とは生きて駆け回り絶望したり希望したりしても完全は掴めはしない、どうしても分化された不完全な世界に留められている。その外にいた頃より内に(自然に)還ることかも。

完全な世界があるとするなら社会的な本能がある存在として(人間が社会に育まれて得る必須のもの、死を怖れる概念なども本能に見なす)、個と認識されること、自ら意志表明すること等は完全否定される!が神の要素となって万能にして絶対真理の神と共に生き長らえるといういうこと(汎神論では)。

翻弄されたくない都合を理由に善行も悪行も出来なくなります(主客対立の崩壊、属性がないようで全体に一致しているから)。この境地に対して人間は何一つ文句も言えず、だからこそ永遠無限超越的存在とされます。

それに反して万能ではない絶対唯一神というのは、人間の価値観に追従した人間の官僚並みの人格という枠を持っているといえるでしょう。

投稿日時 - 2009-05-03 12:12:34

補足

絶対唯一神と汎神論を用いられましたが、まさにゴーギャンはその間で揺り動いていたと思います。神を擬人化、個別化することに意味はあるのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-11 16:43:25

お礼

御子弟子さん、ご回答いただきありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。ゴーギャンは、自と他、個と全、の区別に迷っていたのではないでしょうか。文明社会やキリスト教会に背を向けたのも大いに関連がありそうです。たどり着けない境地とは、彼が感じた文明社会と未開社会、その彼我のギャップにあるかもしれませんね。それはなかなか埋まるものではないでしょう。

投稿日時 - 2009-05-11 16:51:20

ANo.24

No.8で回答したものです。
補足欄にある質問に対する回答を書いて見ます。

=======
> ゴーギャンが問い掛けた「われわれ」は、とりわけ人類を指しますが、生きとし生けるものすべてが含まれるのではないでしょうか。

問いかけの主(ないし問いかけられる側)を「絵画を見る側」とすれば、そのようになりますが、「絵画の側から」とすれば、そのようなことにはならないと思います。
なぜなら、(私の解釈が誤っていなければ)ゴーギャンは明らかに「女性」に限定して描いています。
私は、このことが非常に重要だと思っています。

=======
> この回答への補足 ゴーギャンの主観における、キリスト教と土着信仰の交錯について、ご考察をお聞かせください。よろしくお願いします。

タヒチの土着信仰がどのようなものであったのかについては、タヒチ観光局のサイトでも「不明な点が多い」とのことであり、推測の域を出ませんが、ティキとマラエに関して記述されたサイト
http://www.tahitiguide.com/@ja/8/29/59/article.asp
などが参考になります。

青く光る偶像が「ティキ」と関連するかもしれないと書きましたが、上記サイトでは、人物を模した「ティキ」が「体格の良い高慢な男性の形」であり「腕は下へ折り重ねられて」いて「首が」なく「頭が(直接)身体に貼り付けられている」と記述されています。

「この絵画」での偶像は、このような形式とはまったく正反対の像を呈しています。
また、タヒチでの聖なる色は「赤と黄色」であり、「青」を基調とした絵は、明らかに「タヒチ」の宗教色と相反するものです。
さらに言えば、「黄色」はキリスト教でも聖なる色になっているようです。
前回の回答では、「この絵画」の上端両側に背景が黄色の領域を見て取れることから、ゴーギャンの求める先が「黄色」の世界では?としましたが、逆に、「黄色の世界」の上に「青色の世界」を上書きしたともとれます。そうして、描いた絵画を越えた向こう側へ思いを馳せていたのかもしれません。
すなわち、ゴーギャンは「キリスト教」や「土着信仰」といった押し付けの宗教に対して何らかの想いがあったのでは?と思われます。

で、ゴーギャンが数多くの疾患に苦しみながら、「問いかけの主(ないし問いかけの対象)」を女性としたとするならば、彼の内面では、既に答えがあったのではないでしょうか?

それは、
1.幼少期に父が死んで、母との旅をしたこと。
2.多くの男の子に恵まれながらも、たった一人の娘の死を嘆き悲しんだであろうこと。
3.複数の女性と関係を有したであろうこと。

これらのことから推測するに

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
母なる女性から来た

【Q-2】 われわれは何者か?
女性との関係から逃れえぬ者

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
この絵画を越えた「向こう側」(モニュメント・知的切断面としての「この絵画」を貫く方向としての、彼の情的方向)

だと、思われます。

========
なお、「この絵画」に限定しない場合の、私自身の一般的な回答は、

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
われわれを含む「全体」から来た。

【Q-2】 われわれは何者か?
その人が「こういったものである」と思うものである。

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
われわれを含む「全体」に帰っていく。

となります。

投稿日時 - 2009-05-03 05:59:53

補足

画面中央の果実を摘む人物のみが男であると思われます。これは何を意味しているのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-11 16:12:43

お礼

ご回答いただきありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。先日「ゴーギャン展」に行ってまいりました。やはり本物はド迫力でした。やはりあの偶像は気になりますね。タヒチの土着信仰に敬意を表したのかもしれません。丁寧なご解説と、ゴーギャンとご自身、それぞれの視点からお答えいただきました。よくぞここまで掘り下げられましたね。つくづく考えさせられます。

投稿日時 - 2009-05-11 16:27:10

ANo.23

pokoperopo様、再度のお礼とご質問をありがとうございます。

>なぜこれらの引用をされたのでしょう?よろしければお聞かせ願います。

>>ゴーギャンはこの絵を通じて≪自らの命題≫を観る者全てに永遠に問いかけ続けたかったのだと思います。
すなわち、この絵こそが≪生涯こだわり続けた命題『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』≫に対する【彼なりに辿り着いたこたえ】です。
画家=芸術家としての全力とプライドをかけ、われわれ観る者に【従前の言葉を用いたこたえをも超越したこたえ】を表現したかったのではないでしょうか。

「言葉を超えた絵画の表現」のうちには絵画に見出される一見ナンセンスな色遣いや誇張といった主観的な「感覚」も含まれますよね。
この絵画の細部にわたる丁寧な考察が以下のご回答にて既出だったこともあり、
ネット画面上という極めて厳しい制約を受けながらも、この絵画から感じた「感覚」と、各命題に対して「ふと感覚的に脳裏をよぎった各文」を勝手にリンクさせていただいた次第です。

【Q-1】われわれはどこから来たのか?
奇しくもゴーギャンには幼き頃の南米の想い出があったようですね。
銃殺刑が執行される間際にアウレリャノ・ブエンディア大佐は「幼き頃の想い出」を思い浮かべました。
まるで、どこから来たのかの「どこ」へ戻って行ったかのようにも思われます。
われわれは、人によっては、「どこ」へ回帰し得るのでしょうか。

【Q-2】 われわれは何者か?
ゴーギャンが画家として「一皮剥ける」前後の時期として、アルル時代をイメージしました。
ゴーギャンに置き去りにされて熱く静かに憤るゴッホの書簡。
そしてゴッホを偏愛する小林の冷たく美しいテクスト。
これらから投射されるゴーギャン像、そして『われわれは何者か?』に対して「考えるヒント」が得られましたでしょうか。

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
中島敦は憧れを抱いて南海の島に渡りました。
『南洋譚』おいて≪彼の理想世界≫を描こうとしたとうかがっております。
「そうして恐らくは、「人間は」というのではなしに、「南海の人間は」という説明を私は求めているのであろう。それは兎も角として、南海の人間はまだまだ私などにはどれ程も分っていないのだという感を一入深くしたことであった。」のラスト2文。

ゴーギャンも南の彼方に楽園を見出そうとしましたが、この絵画を通して、はたして彼が楽園を見出せたと思われますか。
一体、南の楽園は「どこへ行くのか?」の「どこ」となり得たのでしょうか。
そしてゴーギャンのベクトルは、アウレリャノ・ブエンディア大佐のようにどこから来たのかの「どこ」へ決して戻って行かないone wayだったのでしょうか。

そして。
pokoperopo様なら、この絵を「感じて」、一体どんなテクスト・場面が想起されますか。
所詮、このたわいもない問答でさえも「ゴーギャン展」における実物の怒涛の迫力に晒されて一瞬で吹き飛んでしまう「前座の余興」に過ぎないのですが。

投稿日時 - 2009-05-02 22:58:17

補足

ハーイ(^o^)/、素晴らしい引用をいただいたので、私の蔵書から引用してみましょう。この問いの答えとはなりえませんが、これらのテキストから生きる意味を考えさせられました。

 【Q-1】 われわれはどこから来たのか?

 〔理論の決定不全性のテーゼ〕「たくさんの競合する理論があり、そのどれもが完璧に説得力があるとはいえないような場合。たとえば、生命の起源の問題は(少なくとも現在のところ)このような状態の好例である。」 (『知の欺瞞』 アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン 岩波書店)

 つまり科学的には我々の起源は解明されておらず、われわれはその思惟によってしか、その答えを導き出せません。また異なる見解も否定することもままならないのです。

 【Q-2】 われわれは何者か?

 「昔々一人の音楽家がいた、その男はマインという名前で、とてもすばらしくトランペットを吹くことができた。
昔々一人の玩具屋がいた、その男はマルクスという名前で、白と赤に塗りわけたブリキの太鼓を売っていた。
昔々一人の音楽家がいた、その男はマインという名前で、四匹の猫を飼っていたが、そのうちの一匹はビスマルクという名前だった。
昔々一人のブリキの太鼓叩きがいた、その子はオスカルという名前で、玩具屋を頼りにしていた。
昔々一人の音楽家がいた、その男はマインという名前で、飼っていた四匹の猫を火掻き棒で叩き殺した。
昔々一人の時計屋がいた、その男はラウプシャートという名前で、動物愛護協会の会員だった。
昔々一人のブリキの太鼓叩きがいた、その男はマルクスという名前で、あらゆる玩具を自分と一緒にこの世界から持って行ってしまった。
昔々一人の音楽家がいた、その男はマインという名前で、死ななかったなら、今日でも生きつづけて、ふたたびすばらしくトランペットを吹くだろう。」 (『ブリキの太鼓 1~3』 ギュンター・グラス、高本研一訳 集英社文庫)

 すでにお読みかもしれませんが『百年の孤独』がお好きなら、是非ともお読みいただきたい作品です。全編が人間のおどろおどろしさに満ちています。

 「回答へのお礼」に続きます。

投稿日時 - 2009-05-11 18:41:34

お礼

「補足質問」からの続きです。 

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか

 「お死に顔は、殆んど、変らなかった。お父上の時は、さっと、お顔の色が変ったけれども、お母さまのお顔の色は、ちっとも変わずに、呼吸だけが絶えた。その呼吸の絶えたのも、いつとはっきりわからぬ位であった。お顔のむくみも、前日あたりからとれていて、頬が蝋のようにすべすべして、薄い唇が幽かにゆがんで微笑みを含んでいるようにも見えて、生きているお母さまより、なまめかしかった。私は、ピエタのマリヤに似ていると思った。」
 (『斜陽』 太宰治 新潮文庫)

 ゴーギャンも太宰もタナトスへの憧憬が見受けられます。私は死後は天国や地獄へ行くのではなく、あの世という並行世界に行くのではないかと考えています。

 総論としましては、私の愛句でもある、この聖句を引用します。

 「天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり 
生るゝに時あり死ぬるに時あり 植うるに時あり植ゑたる者を拔くに時あり 
愛しむに時あり惡むに時あり 戰ふに時あり和ぐに時あり 
神の爲し給ふことは皆その時に敵ひて美麗しかり 神はまた人の心に永遠をおもふ思念を賦け給へり 然ば人は神の爲し給ふ作爲を始より終まで知明らしむることを得ざるなり 
然ば人はその動作によりて逸樂をなすに如くはなし 是その分なればなり 我これを見る その身の後の事は誰かこれを携えゆきて見さしむる者あらんや」

(「傳道之書」 第三章1.2.8.11.22節 『舊新約聖書』 日本聖書協会)

 すべては完全ではありますが、神の御業をわれわれは知る由もないのです。いかがでしょうか?ご回答いただきありがとうございました。

投稿日時 - 2009-05-11 22:00:24

ANo.22

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』

この質問が面白そうなので、参加させて下さい。この疑問を14歳からずっと自問自答しました。18年掛かって、32歳で判りました。その事を書いてみます。

この疑問は自分の心が自分の心に出している質問です。人間の心は自我意識と、仏性(神)で出来ています。自我意識は左脳に在る分別意識です。仏性は生まれながらに在る自分の命の働きそのものです。多分右脳に存在しているものと考えられます。

子供の時には未だ脳の機能が分化していないために、自動的に「心は一つしかありません」この事を聖書では、天国という表現をしていると思われます。思春期頃、中二病と言う事が言われる頃、人間の脳は左右の脳の機能分化が完成に近くなります。

この事と精神疾患が始まる頃、或いは人間の悩みが始まる頃が一致しています。或いは人生に対する不安がこの頃より始まる場合が多いと感じられます。それは分別して世の中を見るようになったと言う意味になります。

分別して世の中を見ると言う意味は、何事も論理的に世の中を見て行くと言う事になります。物事を比べたり、好きと嫌いを言うようになると言う事になります。その思考方法が人間に苦悩をもたらします、何故ならば分別脳の限界を知ると言う事になるからです。

人間の苦悩とは、有限の壁を破れない処に在るからです。人間の思考が有限の壁に突き当たって、行きずまってしまう事から、思考が不自由になってしまいます。子供の時には全てが自由と感じていました。大人の脳になってからは、自分で限界を作ってしまいます。

この限界が人間に障害をもたらせています。精神疾患というもの、自律神経失調症、神経症等です。是等に共通するものが、分別脳で考えると言うものです。

分別脳の思考方法には限界が有ります。分別脳の機能は分別する事と言えます、分別とは有限の別名だからです。論理的に割り切ってゆく事を有限という定義にしているからです。論理的に割り切れない問題には分別脳では歯が立たない、解くのが不可能と言う事になります。つまり矛盾した問題を論理的に解決しようとしていると言う事です。

従って精神疾患、自律神経失調症、或いは神経症は「出来ない方の脳で問題を解こうと」している事になります。くどい言い方になりますが、論理では割り切れない問題、感情、心、体、生と死などを、論理的に解決しようとしていると言う事です。矛盾した問題を理論で割り切ろうとする事です、堂々巡りが止まらなくなってしまいます。

禅問答が有ります。この問答は分別脳では解く事が出来ません。出来ないように仕組まれています。分別脳が出来ないと言って降参させるために仕組まれたテキストです。分別脳が出来ないという判断をした場合に「仏性」右脳の意識が出てきて、抱えている問題を解いてくれます。

是がお釈迦様の言う「悟り」です。禅問答は分別脳で解けない問題を解こうとして心のジレンマ、悪循環に陥っている自我意識にその活路を授けています。禅問答が解けた時には、人間の障害が消えます。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』この問題なんかも、一生懸命に取り組んだ場合には、人間の障害とも言えます。或いは禅問答とも言えます。この問題は心の分裂が招いた自問自答と言えます。この答えは自分で答えるしか方法が無いと言えます。他人の答えは自分の心には響いては来ないからです。

投稿日時 - 2009-05-02 22:29:59

補足

ご回答は、本論に入る前の序論とお見受けしました。Q1~3についてお答えください。よろしくお願いします。

投稿日時 - 2009-05-03 14:14:32

お礼

つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。人間の本質は仏性にあるわけですね。われわれは左右脳の分化が進むことにより、限界を認識してしまいます。子供のように無垢なまま、分別がつかないものでしょうか。長い間、自問自答を重ねられたのですね。さあ、つまり問うさんの禅問答に期待しましょう。

投稿日時 - 2009-05-03 14:25:14

ANo.21

1何処からか生まれた
2人間である
3死に、何処かへ行く
4(美術には詳しい知識がありませんが)タイトルや制作の経緯と相まって観る者を圧倒させます。1-3は私の意見でも有りますが、絵には天国や前世が描かれてある訳ではなく、生まれてきた人間・生きている人間・死にゆく人間、という構成になっていて「この世を超越した世界」には言及されていないように感じます。ただ少なくとも自然界は人間の世界を超えてはいます。青い海や、照りつける太陽や、静かな砂浜は億年単位で残るでしょう。その意味で永遠です。1-3にゴーギャン自身ははっきりとした答えを出したのでしょうか?
5ウィキペディアで彼の項目をみると、分りやすく出ています。
「青い珊瑚礁」という映画を最近観ました。船が遭難し、無人(?)島に流れ着いた幼馴染の男女2人が成長してゆく、というストーリーですが、この映画を見たときに真っ先にこの絵とドビュッシーの「海」を思い出しました。永遠に人々が仲睦まじく暮すユートピアを彼は南の島に求めたのかもしれません。(しかし、楽園がもはやどこにもないと知った彼が遺書だと思って描いたのがこの絵だそうです)

投稿日時 - 2009-05-02 21:35:45

補足

人間とは何でしょうか?よろしければ詳しくお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-03 11:57:46

お礼

ご回答いただきありがとうございます。ゴーギャンの絵や彼の背景から海を連想されたのでしょうか。「青い珊瑚礁」は、私の印象にも強く残っています。命懸けの遺書がわりの作品といえば、『巨匠とマルガリータ』を挙げます。ミハイル・ブルガーコフは、ソ連官憲の目を逃れ、この小説を失明して死の床に就くまでの、およそ十年がかりで書き上げました。奇想天外の着想と、計算され尽くしたプロットは、まさに彼の遺作に相応しいものです。

投稿日時 - 2009-05-03 13:25:17

ANo.20

絵も哲学もド素人故、素朴かつ短絡的なものとなります(私の芸術的なセンスも妖しいものだから)。

>【Q-1】 われわれはどこから来たのか?

  故郷        

【Q-2】 われわれは何者か?

  特殊事情(普遍的な存在は無しかないから)   

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?

  故郷の家に還る(普遍の無に還る)

【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います

  人の(死や世を憂う現象としての)生老病死を表しているようです。
  社会的な人生の表面的な喜怒哀楽を嫌悪するのと平行して
  死の嵩高さ、永遠、超越といった見かけの違い、経験を超えた、
  たどり着けない境地(?)
  それと開放的な南国の極彩色の色使いをリンクさせている
  のかと思います。

投稿日時 - 2009-05-02 17:41:50

補足

よろしければ、たどり着けない境地(?)について詳しくご説明願います。

投稿日時 - 2009-05-03 10:12:03

お礼

御子弟子さん、ご回答いただきありがとうございます。われわれは故郷より出ずり、故郷へと没するのですね。なるほど、個々の存在理由は普遍的ではなく、特殊事情によるのですか。おっしゃるとおり、あなたの人生も、ぽこぺろぽの人生も、特殊事情によるものですね。それぞれに違った役割が与えられています。各々の特殊事情が交錯するこの世界で、あなたとお話できる機会が与えられたことに感謝いたします。

投稿日時 - 2009-05-03 10:23:25

ANo.19

>「われわれ」とはどこからどこまでを指すのでしょうか?

私が感じるのは、潜在的に60億の『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』の風景があるだろうということです。ゴーギャンのアイデンティティたるこの風景が表現されたから、見る側がそこに自分をシンクロさせて自分のアイデンティティを還流させることになるということかもしれません。

哲学的に「われ」と「われわれ」はあまりに深すぎます。
とはいっても、このタイトルの「われわれ」は、見る側が見る側の「われわれ」を還流することになり、それはそれでいいのだと思いますね。
しかし、この絵が究極的に指し示すことになるより深い「われわれ」は「われ」に内在する真のすべての「われわれ」になるのだとは思います。
つまり、あなたとわたしという表現者と鑑賞者、あるいは表現者と鑑賞者の全員の如き「われわれ」の殻を突き破って、「われ」が溶解した森羅万象の全てが「われわれ」になるのではないでしょうか。pokoperopoさんが言われるゴーギャンの包括的世界観というやつですかね。
まさしく、その様に捉えた方が、この絵の輪郭がはっきりするような気がします。

投稿日時 - 2009-05-02 10:51:36

お礼

バナナサンドさん、ご回答いただきありがとうございます。ご賛同いただいてうれしく思います。思えばわれわれは「われ」も「われわれ」もよくわかっていませんね。よくわからないからこそ、この絵に惹かれるのだと思います。

投稿日時 - 2009-05-02 13:35:31

ANo.18

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
【Q-2】 われわれは何者か?
【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
これらの問いかけは、一世紀のローマの二流詩人ペルシウスの「風刺詩」が大本なのだそうで、かのアウグスティヌスも「神の国」でそっくりそのまま引用しているそうです。
Q-1が過去の来歴を、Q-2が現在の状態を、Q-3が未来についての不安を問いかけているので、レトリック感覚に富んだ構成になってます。一般にはQ-3にについて疑念が集中する傾向がありますが、やはりQ-1なくしてはアンバランスでしょう。
ついでに注意したいのは、「私」ではなく「われわれ」が主語となっている点です。誰もが同じ答えを与えられるはずだという疑問文なのですが、果たしてそうなのでしょうか?
そういえばグノーシス主義者もこの問いかけを繰り返していたようです。

投稿日時 - 2009-05-01 23:12:39

補足

もしよろしければ、Q1~3のご自身のご考察をお聞かせください。よろしくお願いします。

投稿日時 - 2009-05-02 12:00:15

お礼

ハイペリオンさん、ご回答いただきありがとうございます。このぽこぺろぽは、浅学の身でありまして、古くはグノーシス主義者が、同様の問い掛けをしていたとは知りませんでした。大変参考になります。アウグスティヌスの著書を精読してみます。

投稿日時 - 2009-05-02 12:06:22

ANo.17

pokoperopo様、あたたかい励ましのお礼をありがとうございます。

先の回答のラスト一行が欠落してしまい、ご迷惑をおかけ致しました。
仰せの通り、三位一体のタイトル【Q-1~3】を哲学的に捉えようと試みましたが、やはり愚鈍なわたくしには所詮≪わからない≫ままでした。申し訳ありません。
ですから、せめてものお詫びにゴーギャンにちなんだ引用文を選び記しますので、抜粋とはいえpokoperopo様の直覚と想像力をこちらこそあてにする形となりますが、お許し下さいますよう。
pokoperopo様のお考えのところのものと、わたくしの引用文の暗示するところのものが少しでもリンクするのであれば、大変光栄に存じます。

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
「こうして子供たちは、アフリカの南端には、地面にすわって瞑想にふけるのが唯一の楽しみだという、聡明で温和な種族が住んでいること、また島づたいにエーゲ海を渡ってテサロニカの港まで行けることなどを知った。この蠱魅的なまどいは子供たちの記憶によほど強く印象づけられたらしく、それから長い歳月が流れて、正規軍の将校が撃てという命令を銃殺隊にくだす直前にも、アウレリャノ・ブエンディア大佐は、理科の授業を中断した父親が何かに憑かれたように宙に手を浮かし、目を一点にそそいだままの格好で、メンフィスの学者たちの驚嘆すべき新発明を披露するためにふたたび村を訪れたジプシーの笛や太鼓、シンバルなどの遠い音に耳を傾けていた、あの三月の午後を思い出したほどである。」『百年の孤独』ガルシア・マルケス(p28)

【Q-2】 われわれは何者か?
「『ゴーガンは、南国というものについて、精妙な、自由な、全く完全な想像力による観念を持っている。この想像力を抱いて、北国に行って仕事をしようとする。どうだ、面白い事になりはしないかね。先ずこんな具合だ、大胆に局面を解剖してみ給え、彼の姿は、アンプレッショニスムの小さなボナパルトという虎、と言った形で現れてくるのは疑い様のない処だ。但し━何んと言ったらいいか、彼がアルルから姿を消した事は、今言った小さな伍長が、困却し為す事を知らぬ軍隊を置き去りにして、エヂプトを去り、やがてパリに現れたのと比較出来る、いや酷似している。』…

…手紙は、ゴーガンとの別離の悲しみに貫かれ、悲しみが又ゴーガンを洞察している。彼がゴーガンを殺そうとしたのも、亦同じ悲しみではなかったか。耳を切ったのは自責の念からではなかったか。併しそういう分析は危険であろう。ただ、私は、ゴッホの言う「ゴーガンの自負の念」という言葉に注意を払うに止める。ゴッホには恐らく自負の念などなかったのである。彼は誰ともうまくやって行けず、いつも孤独な生活に追いやられていたが、そういう人たちが知る愛情への渇望が、彼を苦しめていた。彼は、人生で失敗したところが、絵で取り返すことが出来るかどうかに悩んでいた。ゴーガンの絵には及び難いものがある。だが、どうして妻子を捨ててまで絵を描かなければならないか。芸術の永遠性を、どうして地球の果てに求めねばならないか。ゴーガンは、自分の成功と幸福とに虚偽を見てこれを捨てた。及び難い意思の力だ。而も、そういう時に人は自負の念のために苦しまねばならぬとは奇怪なことだ。この優れた画家の仕事の動機には、何か人間への不信めいたものが隠れていやしないか。ゴッホの心を傷つけたのは、恐らくその事ではあるまいか。

併し、そういうゴッホに、ゴーガンは『ゴンクールと聖書に焼かれた頭』を見た。ゴッホは言う。『ゴーガンとぼくとは、根柢ではお互いに理解し合っていたのだ。僕らが少しばかり気が変だったとしてもそれが何んだ。それに僕等は、骨の髄まで芸術家なのだ。絵筆で語ることによって、頭の疑わしさなど否認するのだ』(No.574)

何んと言おうと、後の祭りであった。根柢では互に理解し合っていたという意識こそ、おそらく各自の孤独の意識に他ならなかったからだ。そして、この意識が、毎日鼻を突き合わせていなければならぬ生活をお互いに疑わしいものとしたからである。2人は絵筆で語り乍ら、日常の悲劇を創作したからである。」
『ゴッホの手紙』小林秀雄(p112~115)

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
「いや、あの時計自体よりも、あの時計の事件によって私の心象に残された彼の奸悪さと、今の此の鶏の贈り物とをどう調和させて考えればいいのだろう。人間は死ぬときには善良になるものだ、とか、人間の性情は一定不変のものではなく同じ物が時に良く時に悪くなるのだ、とかいう説明は、私を殆ど満足させない。その不満は、実際にあの爺さんの声、風貌、動作の一つ一つを知り尽くして、さて最後に、それ等からは、凡そ期待されない此の三羽の牝鶏にぶつかった私一人だけの感ずるものなのかも知れない。そうして恐らくは、「人間は」というのではなしに、「南海の人間は」という説明を私は求めているのであろう。それは兎も角として、南海の人間はまだまだ私などにはどれ程も分っていないのだという感を一入深くしたことであった。」『南洋譚』中島敦(p117~118)

投稿日時 - 2009-05-01 21:34:44

補足

なぜこれらの引用をされたのでしょう?よろしければお聞かせ願います。

投稿日時 - 2009-05-02 13:29:12

お礼

マシュマロさん、それにしても素晴らしい、なんと素敵なご回答をいただけたのでしょう!ありがとうございます。ありがとうございます。ガルシア=マルケス、小林秀雄、中島敦。おお、骨太です。あまりに骨太で全く咀嚼できていないので、大事な骨を一旦横において、後ほどじっくり吟味します。このような引用がお出来になる、あなたはいったい何者ですか?こんなにもミステリアスな魅力を湛えた女性には、ボキャ貧のぽこぺろぽには、正鵠を射た賛美の言葉も見当たりません。

投稿日時 - 2009-05-02 13:26:36

ANo.16

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
下手に科学的に答えようとしている方が居ますが完全現代科学の答え方としては
「ビックバン直前の小さなエネルギー体の中」ですね。
あなたも私もカリフォルニアの杉も何万光年はなれた惑星の石もそこに居たのです。
ソフトボールだかバスケットボールの大きさの中に潜んでいたんですね。
最新科学を突き詰めると哲学的、宗教的になる面白さがありますね。

【Q-2】 われわれは何者か?
私とは何でしょうか?
手が無くても私ですね、では足は? SFのように脳だけになったら?
それでも私は私ですよね、では脳すらも無くなって電脳と呼ばれる考える機械になったら?
私と考えるうちは自分がいますよね?これが
「我思うゆえに我あり」です。
では名前が無くなれば?戸籍が無くなれば? それでも私は私。
過去の記憶も無くなれば? でも、私と認識しているうちは私。

これでいらないものは全部取っ払えました。
「私が居ると思う存在」それが我々です。
純粋な魂、思考エネルギーっていうのかなぁ。

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
さあてどこに行くのでしょうか?
果たしてどこかに行く必要があるのでしょうか。
最新科学だとまた宇宙は縮んでもとのビックバン以前のエネルギー体に
なるという人も居るけど まあ、それも一興でしょうね。

投稿日時 - 2009-05-01 21:26:29

補足

われわれは何故にここに来たのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-02 11:48:54

お礼

ご回答いただきありがとうございます。科学的なご考察に加えて、コギト知性を用いられました。明瞭簡潔にお答えいただいた方もいらっしゃいますが、人はそれが真実だとは、なかなか受け容れられないものです。「ビッグバン直前の小さなエネルギー体の中」とは何かを問うことが哲学といえるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-02 11:56:31

ANo.15

二日酔いのオッサンです。
>海と「生命」に、いかなる関連があるのでしょうか?
危うく、二日酔いの厭世的な快感から引きずりだされそうになりました
>マジで。

さて、此処では、色々規約があります。
誰かの幸福は、誰かの不幸です。
流石、名古屋人、義理堅いですね。と言う書き込みも、慌てて、いえ本心ではなく、単なる比喩ですよ、と言わないと、非名古屋人から批判されます。つまり、そのようなギリギリのところで、「今何時」かな。
と言うのは、二日酔いのオッサンの、迎え酒でしょうか?

【Q-2】 われわれは何者か?
これは、ゴーギャンがこの絵を通じて質問した、彼の質問とすれば、それは、絵の中にあるはずです。絵と無関係に万が一発された質問であるとすれば、再度答えようとチャレンジしても、答え難い、質問と答えるかもしれません。6時丁度に、今、何時、と問う正反対に、何時は、何時、と、問いかけているのかもしれません。

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?

どこへ行くのかと問う前に、われわれが、何処かへ行くことを説明・説得せねばなりません、つまり、われわれに、目的・目的地がある、と言うことが確実でない場合に、こんな質問に、意味はありません。

彼は、芸術家であって、哲学者ではないのでしょう。

名古屋人は律儀ですから、あの質問は、
6時丁度に、今、何時ですか?と質問して、6時以外の回答は、論理的に間違っているのですが、時間論の深淵に意図せず嵌りそうで、逃げ帰ったというのが、私のいい訳です。

投稿日時 - 2009-05-01 18:28:44

補足

この不況下にトヨタに大きく依存した、名古屋人であるわれわれは、どこへ行くのでしょうか?気が向いたら答えてちょうよ。

投稿日時 - 2009-05-02 12:41:17

お礼

フィッシュボウさん、ご回答いただきありがとうございます。おっしゃるとおり、ゴーギャンは芸術バカですから、作品の哲学的なタイトルの意味を問うのは、無理があるのかもしれません。別の機会に、あなたが6時に、いま何時と尋ねられても、私はそれを読んだときに、自分の時計を見てお答えするかもしれません。それが彼我の時空概念の相違となるからには、時間論の深遠には収斂しにくいのではないでしょうか?われわれの時間を共有するに厳しい名古屋では、私のように時間にどえりゃあルーズな者は生きづらいでかんわ。

投稿日時 - 2009-05-02 13:05:07

ANo.14

<<因果応報とはよくいったものです。今生においても、前世のカルマは負うのでしょうか?よろしければお答え願います。>>

ありのままに知っているわけではありませんがw

私の持つ限りの理性をもちいて考察するなら、あるのは「今」のみで、「多因によって生まれた多果」であると考えてます。

その中で「意思」=「業」といわれる業も因によって生まれた果であると思います。「何をどのように感じるか」が引き継ぐものの一つだと思ってます。

さかのぼれば因は果となり、その果の因も果となり…
原因は結果でありその原因もある…
原因の原因の原因の…

突然原因も無く現われるということは考えにくいので、前世があるのではないかということに暫定的に納得しています。

前世があるなら、そのときの意思・業の果・ポテンシャルも「今」にあると思います。

業のうち我々が重要視したほうが良いものは「どのように感じるか」という面だと思います。

その感じ方を精神的な苦しみを減らす現実に沿った軋轢の生まれない形に修習することを重要視しないで、起こった物事を「~のせい」「~のおかげ」という視点で業を見れば、差別的な思考・責任放棄・傲慢・無気力・恐怖の方面に支配され、幸福に向かう精進を奪い、不幸に向かう可能性を多く感じます。

業は結果を鑑みた時の「意思」だと思ってます。

より幸福になるように八正道を有漏の功徳の面によって修習し、善に至るようにすることが、生命がまずなすべきことと思います。

身・口・意を「清らかな意思」を持って生きれるように。

何か参考になれば幸いです。
幸福であれノシ

投稿日時 - 2009-05-01 08:55:50

お礼

マッガさん、いつも有り難いお言葉を掛けていただきありがとうございます。因も果も、つまるところは今でしかないと考えてよいのですね。そうですね、時間は「いま」しか存在しません。当たり前のようですが、すぐに忘れてしまうものです。「身口意」を清めます。

投稿日時 - 2009-05-02 12:21:31

ANo.13

こんばんは。
部分回答のみの私見で申し訳ありません。

【Q-1~3】←パス
【Q-4】 
一見、いとも容易くゴーギャンの主観や意図が読み取れそうな近づきやすさがあるけれども、
見れば見るほどに、余計に訳がわからなくなってくる感じ。
とらえどころのない壮大さと深遠さを抱く人生観・世界観が描かれていると思います。

「光」と「影」、「美しさ」と「醜さ」、「賢さ」と「愚かさ」、「歓び」と「悲しみ」、「原始」と「文明」、「生」と「死」、「過去」と「未来」等など。
あらゆる全てを包み込んでいる絵だと感じ入りました。

【Q-5】
この絵画にこのタイトルが本当に相応しいのか真意の定かは知れません。
ですが、絵画とタイトルに共通項を見出すなら、≪わからない≫の一言だと思います。

何が「良い絵」で何が「悪い絵」なのか。
何が「美」で何が「醜」なのか。
一体誰が本当にゴーギャンの描いた意図が真に理解できるというのか。
この絵を鑑賞する者の価値観は各々異なるだろうし、仮に「わかった」として、いったいそれの何が本当に≪わかった≫と言えるのだろうか。

ゴーギャンはこの絵を通じて≪自らの命題≫を観る者全てに永遠に問いかけ続けたかったのだと思います。
わたしたちの誰にも『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』なんてわかるはずもないのに。

ああ、なんて陳腐な文章なんでしょう!(笑)

投稿日時 - 2009-05-01 01:23:39

補足

せっかくお答えいただいて、イチャモンをつけるわけではありませんが、Q4、5のご回答を任意としたにも拘わらず、それにはお答えいただき、Q1~3についてはご回答されない方が、マシュマロさんの他にもお見えになります。やはりお答えづらい設問なのでしょうか?せっかくですから、Q1~3についても、よろしければ参考までにお聞かせ願います。

投稿日時 - 2009-05-01 11:38:53

お礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。ぽこぺろぽは絵心があり、哲学にご関心のある、女子からのお答えを大変うれしく思います。ゴーギャン展には足を運ばれたのでしょうか?私も直に鑑賞するつもりでおります。この絵に「陰陽」を感じとられたようですね。ゴーギャンがタヒチに移った背景には、キリスト教への懐疑と、広義のシャーマニズムへの憧憬があるのかもしれません。また包括的な世界観も見受けられます。「存在たち」を描きながら、「世界」を描き切れずに、余った部分を、鑑賞者への問い掛けとしたのではないでしょうか?十分に明快な文章ですよ、ご心配なく。

投稿日時 - 2009-05-01 12:02:41

ANo.12

>現在のところ、Q1~3については、いかがお考えになりますか?

これは、即ち、
【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います
の背景を想像することになりますね。

ここから先は、戯言になります。

まず、この絵のタイトルで「われ」ではなくて「われわれ」にしていることろに自他の同一性および同時性、共感、さらには自己と世界との同一性をも予め想定している世界観を感じます。
そして、この絵はもちろんタヒチの臭いがするのですが、実は全く違うものを表そうとしているように感じるんですね。
戦慄するのは、 私の『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』の風景がこの絵の前面におぼろげながら ふっと 投影されるということです。それが答えと感じ取ります。
だからこそ、作者は、このタイトルを自信をもってこの絵に名付けているように思うんですけどね。

投稿日時 - 2009-05-01 00:04:10

補足

「われわれ」とはどこからどこまでを指すのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-02 07:16:40

お礼

バナナサンドさん、ご回答いただきありがとうございます。常に鋭く本質を射抜くあなたが、この絵に引きつけられるかのように、身を任せておられることは、ぽこぺろぽには少し驚きです。それほどまでにこの絵は見る者を、「われわれのいるべき場所」へと誘います。私はこの絵に、ゴーギャンが包括的世界観とするであろう、アイデンティティとシンクロニシティを強く感じます。

投稿日時 - 2009-05-02 07:27:30

ANo.11

 No.5のブラジュロンヌ子爵二等兵です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかし子爵ブラジュロンヌは、他の質問にも答えたように、輪廻をかなり懐疑的に見ておるようだ。
 余が再び生を受けたように、民は「セカンドチャンス」を欲している、現世において完結した自己の生の重さから逃れたい。つまるところ「現実逃避」を転換した願望にすぎないとは思わぬか?
 答えてみよ。答えたなら元の大佐の階級に戻れるように計らおう。よろしく頼むぞよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ぽこぺろぽ陛下 陛下におかれましては はなはだ窮屈なお考えをなさっております。いけません。
 この世 この一生のあいだにて いく度もの機会が 得られるようにとこそ わたしどもは 生まれて来ております。
 セカンドチャンスどころか 千回万回億万回のめぐりあわせに遭遇する機会が 与えられておるわけでありまして よもや 陛下が この賜物を お忘れにてあらせられるとは 驚天動地 おてんとさまが 西から上がる仕儀にあいなりますかに 危惧されてなりません。
 いかがおぼし召しでいらっしゃいましょうか。

 余録にて。
 かかる意味にて 
 ★ どこから また どこへ
 ☆ なるお問い合わせにつきましても たしかに 
 ○ いま・ここ〔なる わたし〕
 ☆ が とうといとこそ聞き及んでおる次第です。
 ○ 永遠の現在
 ☆ とも言われております。どこからも どこへも この今に収斂しているやに うかがっております。
 お耳汚しにて失礼いたしました。

投稿日時 - 2009-04-30 19:38:36

補足

余もめんどくさいので、下々の言葉に戻すぞよ。そちはもとい、大佐はフランスにお詳しいようですが、ゴーギャンにつきましてはいかが思われますか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-01 15:14:48

お礼

ブラジュロンヌ子爵どの、ご回答いただきありがとうございます。輪廻につきましては、私がそのような考えを持っているのではなく、人間の後悔や諦めに対する慰めとして、輪廻が発明されたのではないかと考えております。まあ、人生一回こっきりで悟りを開くのは至難の業です。それに対する言い訳です。もしもあなたと私の意識が融和したなら、われわれはひとつとなり、それぞれの人生をも共有できるのでしょう。そのためにここに来て、ここにいる、ここに居続けるのだと考えます。余談ですが、『モンテクリスト伯』は読みましたが、『ダルタニアン物語』は読んでおりませんので、子爵という称号がピンときません。次に読む小説は『ダルタニアン物語』とします。

投稿日時 - 2009-05-01 15:28:30

ANo.10

ご質問者様のご期待にお応え出来ませんが、

【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います
について、書かせてもらいます。

名古屋ボストン美術館は、入り口を入ると、右手の壁面に、かの絵のレプリカが鎮座しています。・・いました。レプリカと言えども元々大作ですから、圧倒的存在感を示すレプリカでしたね。さて、今回、もし、現状のままレプリカが存在するとしたら、階上の展示室に丁重な(う~むこんな凡庸な表現)扱いを受ける本物、この本物とレプリカの差異とはどんなものでしょうか、もし、本物を見に行くとすれば、それが一番の楽しみです。
こんなことを言うのは可笑しな事と思われるかもしれません。
ゲルニカもそうかもしれませんが、この絵も、絵というよりは、一種のテクスト・記号のような気がします、ですから、複写できるのです。
洋画・日本画を問わず、複写ではなく本物だから(実物)だから、香りを感じてしまったり、風を感じてしまったりする絵がありますね。

つまり、この絵は、複写できる、と個人的に考えています。
もっとはっきり言えば、美しくない。
さて、本物を見て私の考えが変わるかどうか、もっとも、人ごみの中で絵を見るような気にはなれないのでレプリカで満足しています。

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
これらの三つの質問は古くからあることです、「われわれ」「どこ」がどの範囲を指示するのかわかりませんが、

仮に、私たち「生命」が何処から来たかといえば、海、と答えます。

投稿日時 - 2009-04-30 18:39:14

補足

海と「生命」に、いかなる関連があるのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-05-01 11:17:31

お礼

フィッシュボウさん、ご回答いただきありがとうございます。奇しくも、このぽこぺろぽも名古屋圏に住んでおりまして、名古屋ボストン美術館へお出かけになった際の、詳しいご案内は大変参考になりました。是非、鑑賞に足を運ぶつもりであります。レプリカとはいえ、写実描画ではありませんから、おおよその雰囲気は感じ取れるのでしょうね。なかなかに楽しみであります。ところで私はあなたのご質問で、いちおう哲学的にお答えしたつもりではあります。マジで。

投稿日時 - 2009-05-01 11:28:22

ANo.9

追伸【Q-4】
ナガール竜樹では難解すぎるかもしれないので釈尊の言葉を借りて説明してみましょう。
ゴータマシダッタは「人は何故生まれ、病になり、老いて死ぬのだろう、若い元気なままでいられないのだろう。」という疑問を持ちその回答を求めて王宮を出ます。 このときゴータマの眼に映っていたもの、それがポール・ゴーギャンの絵画に見て取れますね。
生まれてきた幼児、子供、光り輝く若い女性、子供の母、老いた女性など、でも青白き死神からは誰も逃れられない。 ポール・ゴーギャンも「生老病死」問題への入り口に達したことは確かですね。信仰の入り口程度の宗教しかない西洋人で悟りの入り口に達したことは立派なことですね。でもそれ以上ではないということですね。同じような認識が山頭火ですね「分け入つても分け入つても青い山」、それ以上なんにもわからんということですね。ポール・ゴーギャンであれば「分け入つても分け入つても黄い女性」ですね。ゴッホは「分け入つても分け入つても黄い風景」ですから同じですね。ポール・ゴーギャンも晩年になり理解したんでしょうね。ゴッホと同じく人生の意味がわからないというところに達したということを。
これ以上の答えはナガール竜樹が提示していますが、さらに理解不能かもしれませんね。でもこれは出家成道の釈尊の悟りのごくごく一部でしかないのですね。絵画は悟りのレベルそのものですね。
追伸【Q-5】 迷い:人生「生老病死」とは?

投稿日時 - 2009-04-30 07:39:16

お礼

MMでKYさん、追ってのご回答をいただきありがとうございます。ゴーギャンはこの絵を描く前に自殺を図っています。この絵は調和を表しているようにも見えますが、タイトルへの結論めいたものは読み取れません。彼の母性への強い憧憬も感じ取れます。結局は彼の目に映ったものの中から、強く印象に残ったものを描写したのでしょう。「何もわからない」きっと彼はそれがわかれば十分だと考えたのでしょう。「生・老・病・死」は、絶対不可避な「苦」です。思いは馳せても、抗うことなく受け容れる。これしかお答えできません。いかがでしょうか?

投稿日時 - 2009-05-01 11:12:01

ANo.8

宗教的な背景は既に提示されているようですので、それらと交えて【Q-4】への回答(?)として感想を書かせていただきます。

さて、絵の方は、ネット上で比較的簡単にみることが出来ます。
http://blogs.yahoo.co.jp/silentsignal21/49921673.html
http://blog.livedoor.jp/meigakan/archives/cat_25032.html?p=2
この中のサムネイル画像をクリックすると大きく表示されます。
また、上記URL中に、たとえば、「ゴーギャンが人生の中で一番つらい時期に、自身の苦しみやタイトルにもなっている3つの問いかけをこの作品に描いたという。」というように、タイトルの背景について簡単に書かれています。

ゴーギャンについての詳しい情報は専門書に譲るとして、wikipediaを含めて、ネット上で生い立ちをみることが出来ます。http://nonkikusuri.blog27.fc2.com/blog-entry-231.html
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin.html

さて、問題の絵ですが、素人なりに感想を書かさせていただきます。
まず、動物を除いて、すべて女性のように思われ、赤ん坊から少女(果実をかんでいる)、思春期位の少女(中央で「禁断の実」を思わせる実をつかんでいる)を含め、あらゆる年齢層の女性が描かれています。それぞれが皆、無関心かのように描かれています。彼女たちは屈託のないタヒチの住民を表しているとも取れますが、(亡くなった自身の娘を含めて)ゴーギャンが関わってきたあらゆる女性達を描いているようにも見えます。
そうして、何人かは、特に若い成人女性と目される人物の多くがこちら側(作者側ないし鑑賞者側)に視線を投げかけていますが、絵の題目が疑問文であるため、彼女らがその問いかけを行っているかのごとくにも見えます。絵は青を基調として描かれており、中央左よりのところに、青く光る偶像を配置しています。これは「ティキ」と呼ばれる石像と何らかの関係があるかもしれません。
http://www.tahiti-tourisme.jp/activities/history.html
さて、彼女らが表題の疑問を「こちら側」へ投げかけているとすれば、当然、絵を描いている途中のゴーギャンにもその問いは「投げ返されている」わけですから、彼自身の思いはこの絵を越えた向こう側へ、さらに「投げ返されている」かもしれません。そういった視点から、更に絵を見ていくと、左右上端には三角形の黄色を基調とした背景(?)が書き込まれています。
なんだが、中央の少女が禁断の実をもぎ取った途端に、前面の青を基調とした絵がベローンと剥がれ落ちてきて、あるいは、塗りつぶされてしまって、(輪廻転生のごとくに)次の絵が現れてきそうな雰囲気を醸し出しています。
晩年、タヒチ住民を擁護しつつ、キリスト系教会とも争ったとの記述が上記参照URL内にも書かれていることから、キリスト教系での生命に対する考え方と地元住民の古来からの宗教観との交錯が含意されているように思われます。

投稿日時 - 2009-04-30 05:42:20

補足

ゴーギャンの主観における、キリスト教と土着信仰の交錯について、ご考察をお聞かせください。よろしくお願いします。

投稿日時 - 2009-05-01 10:40:05

お礼

ご回答いただきありがとうございます。作品の詳しいご解説をいただきました。絵の中には女性と思しき人々に加え、動物や豊かな自然も描かれています。ゴーギャンが問い掛けた「われわれ」は、とりわけ人類を指しますが、生きとし生けるものすべてが含まれるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-01 10:48:13

ANo.7

回答じゃなくて個人的意見です。

【Q-1】 われわれはどこから来たのか? 
ここからきた。あるいはずっとここにいた。

【Q-2】 われわれは何者か? 
今ここにいる自分ー自他同一であり、自己同一であるところの自分

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? 
ここにい続ける。

【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います
この絵のこと知らないんです、ごめんなさい。

【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います
多分、人生に悩まれたのではないかと・・・
ある種の、人格の階層に関する問題、と思います。

投稿日時 - 2009-04-30 03:19:48

補足

人格の階層に関する問題とは何でしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-30 20:59:29

お礼

羊さん、ご回答いただきありがとうございます。われわれは始めから、ここにいて、あなたと同じく、私はひとつで、ここにいつづける。きっとそうなのでしょう。私はこの世界の秘密をわかってはいませんが、永遠にここにいるのでしょう。あなたとともに。

投稿日時 - 2009-04-30 21:05:55

ANo.6

【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います

この作品には、日常を超越し多層に折り重ねられた時空間を感じます。
普通の描写にはない超立体感がありますね。実物の迫力を絶対に見に行くつもりです。

【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います

これはゴーギャンでないと答えられないでしょう。

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
【Q-2】 われわれは何者か?
【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?

思うに、これを3つの視点に分解してそれぞれを語ると的をはずします。いずれも同じことを指していると同時にいずれも欠くことができません。

投稿日時 - 2009-04-29 17:43:44

補足

私も思索するうちに、3つの問いは連関し、ぶつ切りで考えると混乱をきたすような気がしてきました。現在のところ、Q1~3については、いかがお考えになりますか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-30 20:48:51

お礼

バナナサンドさん、ご回答いただきありがとうございます。私もゴーギャン展には、まだ足を運んでおりません。会期中には必ず鑑賞するつもりでおります。それにつけても、とりたてて立体的な描図とは言い難いにも拘わらず、不思議な奥行きを感じますね。ご鑑賞されたら是非ご感想をお聞かせ願います。

投稿日時 - 2009-04-30 20:56:17

ANo.5

 ぽこぺろぽ陛下どの ブラジュロンヌ子爵が お答え申し上げます。

 ★ 意味深なこの言葉
 ☆ について まづは 質問趣旨に つぎの箇所を掲げておくのをお忘れになったものと存じます。

 ▲ (『ヨハネによる福音』8:14)~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスは答えて言われた。
  ――たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは
   真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、
   わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがど
   こから来てどこへ行くのか、知らない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 一見もしくは三見くらいでは ただの高慢な男の高ぶり発言にしか過ぎないようですが 押さえておくべきではないでしょうか。

 さて またもや その筋からの引用で 恐縮ですが 参照してもよい話があります。 

 ▲ (『ヨブ記』 1:7) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 主はサタンに言われた。
  ――お前はどこから来た。
  ――地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました。
 とサタンは答えた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ サタンとは 何ものなのか 必ずしも つまびらかにし得ませんが おそらく 《主》だとか《イエス》だとかの言葉に 嫌悪感をもよおす方々のあいだでは この《サタン》は なじみ深いものがあるのではないでしょうか。
 もしこの筋――えぇっ どの筋? いえ ともかく これらの役者さんたちが揃った筋です――においては やはりともかく 《ほうぼうを見てまわっている》サタンさんから 主と呼ばれる者は 報告を受けております。何の報告かと言えば われわれ人間が いかに 生きているか・どれだけ サタンのもとに集合し その手下になったか こういったことの仔細な内容であろうと考えられます。
 でしたら
 【Q‐1~3】 われわれはどこから来て われわれは何者であって どこへ行くのか?
 ☆ については おのづから 答えが 決まっているものと思われます。最初に引用した記者ヨハネの記事が 明かしていると言わざるを得ません。
 それが いままで じんるいが得た最高最大のうそとして ご質問への唯一の正解であるというものです。

 ちなみに 無神論が
 ○ われわれは 生まれたからには 生きるだけである。
 ☆ こう論じ こう説いても 一向に 新しい答えにはなっていません。まったく同等・対等で しかも けっきょくのところ 同一の正解です。
 わたしたち人間は 多少のうそのほうが ほんとっぽい気がするもののようです。

 余談です。
 ぽこぺろぽ皇帝陛下どの。ブラジュロンヌ二等兵(じつは 降格人事がありました)が見ますには 世に 《輪廻転生》なる世にも不思議な流行が 思想しております。
 これは とうぜん 因果応報説を伴なわなければ ばかみたいな流行だと思われます。わたしは 国土生成のころ イザナキのミコトのお伴をしていたのだよとか 社会が二階を増築するころ おほきみの辺にこそ死なめ 返り見はせじと歌っていたのだよとか 覚えていたとしても 屁でもありません。何がおもしろいのでしょう? 
 ところが 輪廻転生のもとに 因果応報を説くなら われわれ人間のやること為すこと みなすべて 自業自得であるというものです。何をしても ことごとく 過去世からの因果になります。そう言えば 通ります。――わたしたちは これほどに 愚かになって いいものなのでしょうか? 
 この情けなさは もし悲しむならば その悲しみが そのつど 倍になって 膨らむというものです。もしうっちゃっておくならば 情けなさ自体が 宇宙にまで 膨張していくというヰルスのようであります。
 われわれ人間は これほどまでに 阿呆であってよいのでしょうか?
 よろしければ 陛下のくしゃみのおひとつにても この深いうれいに満ちた空気を 吹き飛ばしていただきたく ここに お願いいたすものです。
 陛下におかれましては ごきげんうるわしく遊ばせますよう。

投稿日時 - 2009-04-29 17:30:14

補足

実は、余は一日だけ皇帝に即位し、ギロチン台の露と消えたぽこぺろぽ一世の生まれ変わりである。あまりに非業の死であったため、大天使ミカエルの特別な計らいで、煉獄から連れ出されたのだ。しかし子爵ブラジュロンヌは、他の質問にも答えたように、輪廻をかなり懐疑的に見ておるようだ。余が再び生を受けたように、民は「セカンドチャンス」を欲している、現世において完結した自己の生の重さから逃れたい。つまるところ「現実逃避」を転換した願望にすぎないとは思わぬか?答えてみよ。答えたなら元の大佐の階級に戻れるように計らおう。よろしく頼むぞよ。

投稿日時 - 2009-04-30 18:32:48

お礼

回答、ご苦労であった。褒めてつかわそう。余がヨブ記とヨハネ書を引用しなかったのは、引用しないほうが、皆の衆の懇切丁寧な解説が聞けると考えたからである。亡国者ゴーギャン某は、これらの言葉を知りつつも神を懐疑し、結果としては否定できなかったと考える。彼が死の境地で認めた神がキリストではないだろうが。まあ、たとえわが領土なれ、タヒチなどという蕃地に遊ぶ非国民などは、倦み苦しんだところで自業自得であるが。余は神の一部である。神は神だけでは何の意味もなさない。存在するため、経験するため、この宇宙を創られた。ちなみに余が尊敬語を用いるのは、神に対してだけである。

投稿日時 - 2009-04-30 18:57:55

ANo.4

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
【A-1】 一つ前の原因の結果。業の因。

【Q-2】 われわれは何者か?
【A-2】 五蘊。

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
【A-3】 今を原因とした結果。業の果。

「因となる今」は業であり意思。

そのように考えましたw

投稿日時 - 2009-04-29 08:32:34

補足

因果応報とはよくいったものです。今生においても、前世のカルマは負うのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-30 20:37:16

お礼

マッガさん、ご回答いただきありがとうございます。やはりわれわれとは五蘊そのものなんですね。ぽこぺろぽも五蘊への深い悟りがほしいものです。

投稿日時 - 2009-04-30 20:41:08

ANo.3

ナガール竜樹の答え〔八不中道〕を引用して回答しましょう。
【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
【Q-1】【Q-3】回答:
「不来不向」:遠いところから来るものでもないし遠いところに行くものではない。意味は同じ空間に存在するということ。
【Q-2】 われわれは何者か?
【Q-2】回答:
「不生不滅」:生まれるものでもなく死んでなくなるものでもない。
「不常不断」:いつも変化しているものである
「不一不異」:複数の中の一人である。
【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います。
【Q-4】回答: 【Q-1】---【Q-3】の答えにはなっていない。「私にはわからない」ということの表現に他ならない。
【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います
【Q-5】回答: 迷い。: 分け入つても分け入つても青い山(山頭火)。
付け加えると:ポール・ゴーギャン程度からは早く卒業して欲しいというメッセージでしょうね。

投稿日時 - 2009-04-29 07:03:32

補足

同じ空間とは何のことですか?イマイチ咀嚼できずにおります。よろしければお教え願います。

投稿日時 - 2009-04-30 19:08:15

お礼

MMでKYさん、ご回答いただきありがとうございます。ゴーギャンは「不来不向」に行きつけなかったからこそ、この世界をMMなものと捉えたのかもしれません。しかし絵を見るかぎり、「不一不異」の境地には到達したかに見えます。しかし、彼の生涯をひもとくと、彼がKYであったことは間違いないようです。それにしても、山頭火はしみじみと深いですね。もちろん、ぽこぺろぽはあなたを、MMでKYな方だとは、露ほどにも思っておりません。

投稿日時 - 2009-04-30 19:21:34

ANo.2

【Q-1】もともと単なるエネルギー体です。高次元世界からエネルギー振動数を低下させ物質化させることで3次元(4次元時空)の世界に期間限定で来ました。エネルギーの質を高める為に。

【Q-2】4次元時空においては3次元物質の肉体と高次元エネルギー思念を重ね合わせたものです。(たまに外れる人もいるようですが)

【Q-3】スケジュールをこなした後、専属トレーナーの案内で元のエネルギー体の世界に戻ります。スケジュールは変更可能です。ショートステイやロングステイの場合がありますがエネルギー体にとっては時間はさほど重要ではありません。時間が重要なのは質量を持っている期間だけです。

【Q-4】描いた時の平穏で穏やかな孤独さが伝わってきます。

【Q-5】存じ上げません。すみません。

投稿日時 - 2009-04-29 04:29:20

補足

私にはひとつ理解が及びませんでした。「専属トレーナー」とは誰の(何の)ことでしょうか?よろしくお教え願います。

投稿日時 - 2009-04-30 17:53:59

お礼

ご回答いただきありがとうございます。より生物学的見地よりお答えいただきました。ゴーギャンはフランス本土と、気候や地形も大きく違うタヒチで、この絵画を完成させました。かの地の風土が彼の思想に大きな影響を与えたことは疑う余地もありません。そこでは祖国には見られない生物とも出会ったでしょう。この肉体が生まれる前、朽ち果てた後、どうなるのかは皆さんのご回答に期待します。

投稿日時 - 2009-04-30 18:05:40

Q1はいわゆる生物学、分子生物学、宇宙物理学などの自然科学で生物(生命)の歴史を考えればよいように思います。Q2は微妙ですがQ1の結論であるとと同時にQ3の始まりでもあります。Q3は、いわゆるソシュールの恣意性の意味でQ1的な連続性が失われているようにも思います(なぜ人間の脳が大きくなってしまったのかはやはり謎のもまです)が、Q1の起源もまず永遠(人類が生存できる限り)にわからないでしょうからQ3の延長も大きな円弧を描いてQ1の起源に接続しているようなイメージを持ちます。要するに3問とも答えが得られないということではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-04-29 02:56:43

補足

拙門は絵画のタイトルを引用し、その語句を項目別に掲げて問うたにすぎません。「ソシュールの恣意性」をもってお答えいただきましたが、浅学な私にはイマイチ理解が及びません。恐れ入りますが、Q3について、改めて詳しく教えていただけますか?

投稿日時 - 2009-04-30 17:42:22

お礼

書いたらさん、ご回答いただきありがとうございます。私も絵画のタイトルについて思索を始めたら、メビウスの輪に迷い込んでしまいました。しかしゴーギャンが用いなくとも、誰もがこの問いを発することでしょう。遅くとも死の床に就くまでには。

投稿日時 - 2009-04-30 17:47:18